新房監督と幾原監督
さて、ピングドラム1話放映以降、この二人のどっちがどっちのパクリだ
という議論が盛んに行われているという。
前にも
「新房シャフトはウテナのパクリ」なんていうことを言っている人がいたが、
ここらへんが
「新房シャフト」という考え方の限界だろう。
俺の認識としては
二人はアニメの歴史の中では「同期」であるという認識だ
まったく別のところ出てきて同じような道を途中まで歩んでいた
似た者同士と言ってもいい
●セーラームーンと幽☆遊☆白書
さて、幾原監督について話す時に、まず出てくるのがセーラームーンであろう。
彼は、個性溢れる演出スタイルが特徴だが、
原作モノをそのバックボーンとしている。
しかも、今の深夜アニメのような原作ではない。
3大少女漫画雑誌、しかも当時はその中でもトップであった。
そういう原作モノの中で、
彼はその個性を遺憾なく発揮し、
注目を集める。
最初に注目を集めたのは
セーラームーン無印の31話か。
これはハイパーギャグ回である。
セーラームーンのあらゆる要素をギャグにしている。
この話数が爆発的な人気を誇った。
アニメージュのアニメグランプリ各話賞においては
前回まで二年連続で「ふしぎの海のナディア」が
各話賞を受賞していたが、
1992年にはこのセーラームーン無印31話が受賞。
作品部門においてもセーラームーンが選ばれる。
ここからセーラームーンと幾原邦彦の快進撃が始まる。
各話賞はこの後、1994年までセーラームーンが受賞し、
1994年にはこれも幾原演出回として名高い
通算話数110話「ウラヌス達の死?タリスマン出現」が選ばれている。
セーラームーンにおける幾原SDの存在感をこれ以上説明する必要はないだろう。
さて、そんなセーラームーンであるが、
意外にも作品部門の受賞は1992年のみで
次年度からは二年連続である作品が選ばれている。
そう
「幽☆遊☆白書」
だ。
ご存知のこととは思うが幽☆遊☆白書はジャンプ連載の漫画の原作モノであり
当時は「ドラゴンボール」「スラムダンク」と並んで
ジャンプ三本柱とかジャンプ御三家とか呼ばれいた人気タイトル。
このアニメの中でも一際目立っていた演出家がいる。
それが新房昭之さんである。
彼がまず注目されたのが、
ご存知「黒龍波の回」こと
58話「究極奥義!ほえろ黒龍波」である。
といっても、この回は上妻晋作さんの素晴らしい作画に注目が集まったと言っていい。
新房さんはもともとは金田伊功氏のファンだったようであることが
山下将仁さんなどのインタビューにより知られている。
さらには高橋和希さんとは友人であったようである。
最近明らかになった情報では、
「剛Q超児イッキマン(1986年)」のOPに上妻晋作さんをプッシュしたのは
原作者の高橋和希(当時:高橋かずお)さんであるという。
高橋和希さんが作画オタクであった可能性は十二分にあるが、
その情報源が新房さん、というのは十分にありうる話。
そんな金田系スタジオでアニメーターをやっていた新房さんが、
演出に移行したのが、鴫野彰監督の「からくり剣豪伝ムサシロード」
このアニメでは、上妻さんが絵コンテで参加しており、
新房さんは上妻さんの回などで演出処理と場合によっては作画監督をしている。
鴫野彰さんとの出会いは大きかったと、インタビューで新房さんは語っている。
鴫野彰さんというのは、竜の子プロダクション出身の演出家であり、
スタジオぴえろ(ぴえろもタツノコ系)に移った押井守さんの後釜に座った人だ。
いわゆるタツノコ系といわれる人たちの演出は独特の感性があり、
例えば、「色使い」についてもタツノコには独特のものがあった。
今それを見るには、タツノコの色彩感覚の影響下にある
「真下耕一」監督作品を見るのが手っ取り早いであろう。
鴫野さんも他のタツノコ出身演出に負けるとも劣らぬ
独特のセンスの持ち主
ななこSOSでは
原作のこの色彩を
アニメでは
こうしちゃうんだから、さすがタツノコ出身だ。
彼らは、黄色と緑と紫が大好きだからね
他にも独特のセンスを爆発させすぎた監督作
「魔法のアイドルパステルユーミ」
ではその独特すぎる作品世界と、ある意味では後の深夜アニメへと繋がるエロさが祟って
打ち切りなってしまうという悲劇もあった。
そんな鴫野さんの元、「ムサシロード」そして「丸出だめ夫」で各話演出の経験を積み、
幽☆遊☆白書へと参加するわけである。
その彼が演出家として力を発揮したのが
「ドクターの回」こと
74話「テリトリーを打ちやぶれ!!」である。
この回も10年くらい前までは、もう「新房演出=ドクター神谷」ってくらい
誰でも知ってるほど有名な話数なんだけど、
今はどうなんだろうか?
話をちょっと軌道修正しよう。
東映アニメーションというバックボーンを持ち、人気原作モノで独特の演出を繰り広げた幾原邦彦さん
金田伊功さんとタツノコの影響の下、人気原作モノで独特の演出を繰り広げた新房昭之さん
同じ時代に同じようなステップを踏んだわけである。
(幽白とセラムンというところに因縁を感じるというのもあるw)
●JCSTAFFの登場
そんな評価を受けた二人の次のステップは監督、それもオリジナルアニメの監督ということになる。
ここで、出てくるのが「JCSTAFF」という制作スタジオだ。
JCSTAFFもスタジオぴえろと同じくタツノコ系の会社。
OVAばかり作っていたこの会社がTVシリーズ作る。
その監督に抜擢されたのが「新房昭之」監督だった。
作品名を「メタルファイター・MIKU」という
現在も「演出」の大切を訴える松倉友二Pの入社が1992年であり、
この作品にも大きく係っている。
一方の幾原監督も、このJCSTAFFにお世話になる。
そう「少女革命ウテナ」だ。
これについては説明不要であろう。
幾原監督がウテナのやっている1997年、新房監督はといえば、
同じくJCSTAFFでOVA版「ヤマモトヨーコ」を作っている。
TV班とOVA班。まさに「横目で見る」状態だったのは想像に難くない。
不思議なことに、二人はさらに1999年には、
幾原監督は劇場版ウテナを
新房監督はTV版ヤマモトヨーコをやることになる。
まるで1997年の立場が逆転したかのような配置。
この頃は、幾原監督と新房監督が「JCSTAFF」の二枚看板であったと言っていいだろう。
●そしてその後
タツノコがバックボーンである新房監督はタツノコリメイクものや
「The Soul Taker」を作る。
さらにはエロアニメ業界などをまわって
古巣の「ぴえろ」でコゼットを
「ぴえろ」から派生した「セブンアークス」でなのはを
「シャフト」で月詠をつくり、
知っての通りの「新房シャフト」へと流れていく。
一方幾原監督は、00年代は国費留学などをして完全に沈黙
新作の構想の噂は00年代中盤には出ていたが、
「今世紀中の完成するかどうか」などといわれて、
結果、00年代には監督作品0となる。
●二人の奇才
ここまで見てきてわかるように、
ほぼ同年代の二人(幾原監督の方が3つ若い)が
30代の頃、同じような道を歩いていたというのは、
非常に面白いことだ。
しかも、00年代(つまり彼らが40代の時)は
まったく正反対の道を歩んでいる。
そして今、またこの二人の「類似性」が議論されている。
歴史というものは役には立たないかもしれないが、
やっぱり面白いものだなぁ