新房昭之のアニメスタイル・シャフトのアニメスタイル・山内重保のアニメスタイル


月刊アニメスタイルの新刊を読む。
全体的にはちょっと欲求不満だったけど、
新房監督のインタビューは面白かった。


新房さん・幾原さん・山内さんというのは
なんというかかなり近いフィールドにいるイメージなんですよね。
それは表現主義と言ってもいいかもしれないし、
出崎統的と言ってもいいかもしれない。


でも、その中で、「自分のスタイルを貫くか」「プロデューサー的な意識を持つか」
という違いがはっきりとある。


幾原さんはそういう意味では新房さんよりも早く、
「プロデューサー的な意識」を持っていたように思う。
幾原監督は他人のアニメの分析も的確に行うし、
それは師匠筋の佐藤順一監督の影響かもしれない。


そういう意味で、幾原さんが00年代に沈黙していたのはまったくの正解というか
「護身の完成」的なところがあって、
ピンドラが00年代に放映されても恐らく見向きもされなかったんじゃないかと思う。
良くてゼーガペインくらいの扱いで。


一方、山内さんは自分のスタイルをとにかく貫いている。
「売れるか売れないか」とか「視聴者のニーズ」とか「ブーム」とか
そういったものはまったくもって気にしない。
他人の作品にも特に興味がないように感じる。
自分のスタイルに歯向かう者は、
大御所声優や今をときめくスーパーアニメーターといえど、
容赦はしない。


新房さんは、その中では特殊。
月刊アニスタのインタビューの通り、コゼットくらいまでは
完全に山内監督タイプだった。
コゼットが究極。
その一方で、「月詠」以降は
佐藤順一監督や高橋良輔監督のような
プロデューサー的な立ち回りをしだすようになる。
今ではむしろ幾原監督よりも新房監督の方がより「プロデューサー的」であろう。


今回のインタビューで新房さんの許容範囲の広さというのは
やはり特筆すべきことであったということが分かった。


面白かったのは、http://d.hatena.ne.jp/mattune/20110830/1314716809
で書いた「写真をコラージュすることへのアレルギー」を
やっぱり新房さんも持っていたということ。
http://d.hatena.ne.jp/mattune/20101209
で話題にした「佐武と市捕物控」を引き合いに出して
「違和感がある」と言っている。


しかし、その一方で、尾石さんが「やる」といえばNOとは言わずにやらせてみる。
多分、山内監督タイプだった時の新房さんだったらNOと言ってたんじゃないかな。
出崎さんはそこらへんは案外自由にやらせる人だったようだが。


「ef」についての記述も面白い。
美少女キャラでシリアスをやることに違和感を感じていた、という新房監督。
シリアスなストーリーならば、よりリアルなキャラでやるべきである、という考え方、
つまり
「ドラマとキャラクターは同調すべきである」という考え方。


この考え方は、実は月刊アニメスタイル後藤圭二さんのインタビューでも同様なものが語られていて、
劇場版パトレイバーなどを引き合いに
「劇場版ナデシコ」について、
「コンテの映画らしさに作画が追いついてないな」という反省の言を残している。


映画らしいコンテには映画らしい作画が必要、という考え方が根底にはあるようだ。


しかし、新房監督は「ef」で、それらは乖離していても成立する、ということを理解したという。
この理解なくして、「まどか・マギカ」はなかったというのは、
間違いないことだろう。


ここらへんは、「ピングドラムやレールガンすらキャシャーンSINSっぽい絵になる」山内監督や
エロゲー原作ですら「ここで杉野昭夫さんの絵だったら・・・!」
と思わせる出崎統監督とはまったく別の思考に至ったと考えていいだろう。


やはり新房監督は変わったんだなぁ。
アニメ様も基本的にそういうスタンスでインタビューしてたし。
アニメ様は山内監督タイプだった時の新房さんが好きだったんだろうし、
今からでも、そっちに戻ってくれないかなと思ってるのが、
文面からでも伝わってきて、でも新房さんにそのつもりがほとんどなくて、
それが見てて、少し切ない気持ちになる。



こう見ていくと、一口に表現主義アニメ監督と言っても、
やはり様々なタイプがいる。
似たタイプの監督の比較の中で見えてくるものもあるんだな、
というのを、
たまたま月刊アニメスタイルの宅配とピンドラの山内回が被って実感しました。