琴浦さんと中二病でも恋がしたいの比較〜あるいはあおしまたかしと花田十輝について

前期割かし楽しんでみていた中二病と、今期のダークホースだった琴浦さん
見ていると妙に比較したくなる両作品。


まず、前提としてみるのは、
あおしまたかし花田十輝の関係。


ともにあかほりさとるの事務所・SATZの所属脚本家で、
ぷちぷり*ユーシィ
花右京メイド隊 La Verite
・かしまし
・H2O
カンピオーネ!
花田十輝のシリーズ構成作品の多くにあおしまたかしが参加している。


一方、あおしまたかしのシリーズ構成作品には花田十輝は参加しない。
ここに、二人の一種の上下関係みたいなものを感じる。


この前提を頭に入れつつ比較していこう



●ヒロインの特殊性と主人公
両作品のヒロインの特徴は、特殊であるがゆえに周りとの人間関係がない、ということだ。
琴浦さんは「人の心が読める」という超能力、六花ちゃんは「自分が能力者である」と錯覚している中二病


その人間関係から隔離されたヒロインに対して、
唯一、心を開いたのが主人公。
これが作品の骨格、基本構造になる。
主人公は普通の男だが、ヒロインに対して心開くというその一点が彼が主人公である所以なのだ。



基本構造の類似性は即ち、その差異を明確にする。


一つは、琴浦さんの「能力」が本物であるのに対して、
六花ちゃんの「能力」は偽者であり妄想だ。


琴浦さんの能力というのは本物であるが、本物であるがゆえにファンタジーである。
六花ちゃんの能力は幻想であるが、幻想であるがゆえにリアルである。
ファンタジーとリアル、虚構と現実と、そういったものは表裏一体なのである。


主人公の比較もこう見るとわかりやすい。
真鍋くんは超能力を肯定し、勇太は中二病を否定する。
一見反対のようだが、二人のやっていることはどちらも、
「現実の肯定」だ。
能力があるという現実、能力がないという現実。


●ヒロインたちの原風景となる「親」
ヒロインたちの現状を構成する重要な要素、
いわば裏の構造が、この「親子関係」だ


琴浦さんが周りを拒絶するのも、六花ちゃんが内に閉じこもるのも、
原因は親にある。
これは親という要素自体を排除してきた最近のアニメにしては珍しいかもしれないが、
逆に考えると、「親の排除」という事柄に正面から向き合った結果とも言えよう。


彼女らの本当の「孤独」を表現するのであれば、
両親という最も近い存在を排除する必要ある。
そこで初めて「唯一の理解者である主人公」が生きてくる。


ちなみに中二病の六花の両親関係の話はアニメオリジナルだし、
琴浦さんの原作はあの両親の話から始まるわけでもない。


そういう意味では、この裏の構造へのこだわりは
あおしま・花田両氏の中にあると見て良いだろう。


その上で、違いとしての「先見せ」「後見せ」そして、
「母親の本性」などが浮かび上がってくる。


この裏の構造を先に見せることによって、琴浦さんの内面説明をやりやすくしたこと、
中二病ではこれを見せないことで、六花の内面説明をしないということを選択したことが分かる。
これはつまり、
琴浦さんはコミュニケーションを前提とした物語であり、
中二病ディスコミュニケーションを前提とした物語であること
を意味している。


●周りの人、身近な人。
母親が逃げた話、そして「おじいちゃん」のポジションなどが重要になってくるのも
この両作品の類似点だ。


特に直近の琴浦さん4話の後だとおじいちゃんの重要性という類似点と、
その人柄の違いという相違点が浮き彫りになるだろう。


六花ちゃんのおじいちゃんは、厳しい人だ。
六花ちゃんが中二病という形で閉じこもっていることを認められず、
ディスコミュニケートしてしまう。


それに対して琴浦さんのおじいちゃんは優しい。
琴浦さんが学校で辛い思いをするなら行かなくてもいいとさえ思っていた。
また、言葉だけでなく(琴浦さんの前では言葉の重要性が低いので)
「スキンシップ」という形でもコミュニケーションを表現していた。


この二人はまったく対称的だ。


これを広く捉えると、こうなる。
琴浦さんの世界では身近な人は優しく、そうでない人は厳しい。でも母親は厳しい。
・六花ちゃんの世界では、身近な人は厳しく、そうでない人は優しい。でも母親は優しい。


優しさとは厳しさとは。
ここも表裏一体なのだろう。


中二病の世界のクラスメートは誰も六花ちゃんの異常さを否定しない。
イジメもしないし、拒絶もしない。
六花ちゃんの好きなようにやらせてあげている。
しかしそれは同時、彼女に対して興味がない、無関心とも言える。


つまり、周りが甘いというのは、それが理想的というか性善説的なわけではない。
好きの反対は無関心。
あの世界のルールは基本的にディスコミュニケーションなのだ。


その意味で、「イジメ」や「拒絶」を表現しつつも
「話せばわかりあえる」ということをやった琴浦さんの世界は
まさにコミュニケーションの世界と言えるだろう。


●裏のあるキーパーソン「モリなんとかさん」「なんとか谷さん」
まあ言葉遊び的ではあるが、
「森」と「谷」という文字をもった、裏表のある女の子が
セカンドヒロインなのは面白い偶然だ。


また彼女たちは文字だけでなく、キャラクターとしても共通点がある。
それは彼女らが「ヒロインと似た傷をもっている」点だ。
モリサマーはまさに自身が元中二病だったし、
森谷さんは両親が新興宗教の教祖であり、超能力というものに対しての傷を持っている。
彼女らはその傷ゆえにこの作品において重要な役割を与えられているのだ。



●あと部活とか
まあこれはギミックという感じもしますが、
「合宿と称してヒロインの実家に行く」っていう同じシチュエーションをやってくるとは思いませんでしたよw



ここまで見てきて、
同じ構造の物語を、正反対の要素でやろうとしていることがわかる。
琴浦さん):ギャグのためのシリアス。本物の能力という幻想。コミュニケーションの世界。
中二病) :シリアスのためのギャグ。偽者の能力という現実。ディスコミュニケーションの世界。



今後どうなるのかなぁ。
恐らく琴浦さんも母親は再登場するでしょうね。
それが1クールラストの物語になるんじゃないでしょうか。
そこでの、ヒロインと主人公の対応の違い、これがまた面白い比較のなるのでしょう。


あおしまたかし描く「逆花田十輝」の世界に期待。