メディアの違いを理解せよ


「メディアの違いを理解せよ」とは生徒会の一存1期1話の台詞でよくギャグのように使われるが、
この台詞はそんな軽いだけのものではない。


生徒会の一存1期監督の佐藤卓哉さんは、
元々は原画マン出身。
最初はアニメーターとして活躍し、そこから演出・コンテマン、そして監督へ。
さらにそれでは飽き足らずに脚本家・シリーズ構成としても活躍している。
こういった例はそんなに多くはない。
宮崎駿さんと吉川惣司さんくらいのものではないだろうか。


つまり、アニメの主要工程を押さえた上での
「メディアの違いを理解せよ」
という言葉なのだ。


ではメディアの違いをどう考えるのか。


それが顕著に現れる部分についての話をしよう。


顕著に現れる部分、
それは「モノローグ」だ。


小説や漫画とアニメではこのモノローグの意味合いがまったく違う。


小説や漫画というのは時間を支配していない。
1行、1ページあるいは1コマが具体的に何秒なのかは
指定されていないし、その時間をある程度自由に定義することが出来る。


だから、仮にモノローグが1000文字くらいあろうが、
それを「一瞬」だと表現することが出来る。


逆に小説や漫画は言葉以外の表現が難しい。
例えば、細かい表情の変化や、手足や体の動きなどや
言葉についてもイントネーションや発音については
ストレートには表現できない。


だからこそ、モノローグを使って一瞬の情報量を上げる。
読者は
「このモノローグからすれば、
きっとこの時はこんな手を震わせているかもしれない」
と想像するのだ。


つまり
ノローグ → 言葉以外の部分


これが、アニメでは逆転する。


例えば、アニメ「青い花」の公式サイトのインタビューでは

高山: 『青い花』って原作自体、もともとモノローグが多い作品なんですよ。
    でも映像作品の場合、複数の登場人物のモノローグがあると、ちょっと気持ち悪くなっちゃう。
    なんで最初は、モノローグを使うのはふみとあきらだけにしよう、と思ってて。
    だから実は、第5話の恭己のモノローグも、最初はカットしてたんです。
    そうしたらプロデューサーに「このセリフはなきゃダメだ」って言われて......。
M倉: 今のって、もしかして俺の話?
高山: うん(笑)。
M倉: あの恭己のモノローグはなきゃダメですよ! そんなの当たり前じゃないですか。

――あはは(笑)。とはいえ、全体的にモノローグはカットする方向ですよね。
高山: わりと少なめにしようと。
カサヰ: 映像にしてみると、動きも加わるわけで、絵だけでわりと表現できちゃうんですよ。
    あと音楽も入ってくるし。そうすると、モノローグがかえって邪魔になることもあるんです。
    実際、アフレコで録ってたセリフでも、ダビング(※完成した映像に音楽やセリフを合わせる作業のこと)
    のときに、「やっぱりいらないか」って、カットすることもある。
    「なくてもいいんじゃないかな?」ってときはバンバン外す。結構、外すよね?
M倉: そうだね。カサヰ君はわりと外す方だよね。

――それは、セリフに頼らなくても成立するっていうことですか?
カサヰ: 二重、三重になって、かえってくどくなったりするんですよ。
    「これだけのものを積んで見せたんだから、わかるでしょ?」みたいな場面で、
    さらにセリフを重ねると、さすがに鬱陶しいかなって。「わかんないヤツはダメなんだよ!」みたいな(笑)。
M倉: カサヰ君はその辺の取捨選択がすごく上手いんですよ。


という話が出てくるし、「青い花」と良く比較される「ささめきこと」のシリーズ構成倉田英之さんも
オーディオコメンタリーにおいて

倉田「原作はモノローグが、村雨さんのモノローグが多いんですけど、原作は。」
高垣「カットされてますよね!」
倉田「結構取りました。あのー、アニメーションでモノローグにするとですね、
   凄くキャラクターが考えている間というのもやっぱり作んなくちゃいけなくて、
   その間、他の人たちは何をしてるんだろう、みたいな」
高垣「ああ」
倉田「その人が考え終わるのを待っているという不思議な間が出来たりするんで。
   あとは、キャラクターの頭身が高くて表情がしっかりあるんで、
   芝居できるかな、ということは。演出方向もそっちで行こうと最初に監督と話したんで、
   なるたけ仕草とかで魅せられる方向にやってみました」

とほぼ同じ話をしている。


高山文彦さんは言わずもがな、演出家としても非常に力のある人間であり、
倉田さんは黒田洋介とともに「演出家との連携力」に優れた脚本家である。


演出出身の脚本家としても、脚本から演出にアプローチしようという脚本家にしても、
似た雰囲気を持った二つの作品にあたった際の判断はほぼ同じというのが
非常に面白い。


そう、モノローグはアニメには不向きなのである。
むしろ、コメンタリーで声優の高垣さんが言っているように
「長いモノローグがない分を1つ台詞でカバーする必要がある」のであり、
アニメーターは
「長いモノローグがない分を芝居でカバーする必要がある」のだ。


つまり、小説・漫画とは論理が逆になり、
芝居や音などの言葉以外の部分がモノローグを連想させる
のである。


言葉以外の部分 → モノローグ


勿論、上の「青い花」のインタビューの松倉Pの言うように
「ここは外せない」という部分もあるだろう。
そして、それは原作のコアなファンであればあるほど、
一字一句変えてほしくないという気持ちが出てくるだろう。


しかし、それがメディアの違いで「視点」の違いなのだ。
そのモノローグは存在しないわけではない。
ただ言葉に、台詞になっていないだけなのだ。
昼間に星が無いわけではなく見えなくなっているだけなように。


(その意味で、「青い花」でカサヰ監督・高山文彦さんの両氏の下で脚本を書いたにも関わらず、
「電波女」があんなことになってしまった綾奈ゆにこさんは大分残念に感じた。
また、ああいうものが出てきてしまうような状況というものも残念に思う。)


また、演出側もこのモノローグを完全に消すのではなく、
かつアニメの上で邪魔にならないように配慮し、
最近の「文字演出」への工夫に繋がっている。


近年で言えば「会長はメイド様」の桜井弘明監督の演出であるとか
あるいはちょっと前ではあるが、紅優監督の「LOVELESS」も
原作の「独り言感」、「モノローグ重視」の雰囲気を上手く演出に盛り込み、
大量のモノローグをアニメの範囲に収めていた。


視聴者としては、小説や漫画とは違った
「モノローグへの変換」をスムーズに出来るようになると、
アニメが見やすくなる。
そういうところを一つ一つ、意識的にそして最終的には無意識に出来るようになれば、
アニメをより気軽により楽しく見れるようになるのではないか、と思うわけです。