2016年TVアニメ話数単位10選(新米小僧レギュレーション)


http://shinmai.seesaa.net/article/444986519.html
恒例となったテレビアニメ話数単位10選


ルール
・2016年1月1日〜12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・順位は付けない。



ViVid Strike! 8話




今年はViVid Strike!の年でしたね。完全に。
新米レギュレーションじゃなければ、ほぼ全部ViVid Strike!になったでしょうね。


その中で、やはり十数年前からリリカルなのはを見ているものとして、
この8話は、近所の女の子が母親になってその娘の活躍を見るような、そんな感覚がありましたね。
アニメという媒体では「成長」を描くのは難しいといわれる中で、
リアルな時間を隔てることで、それを実現したように思います。
オールタイムで見ても最高の話数の一つ。


アンジュ・ヴィエルジュ2話


シンプルに「特別」になりたい女の子、というのは良いですね。
アンジュ・ヴィエルジュは今年のダークホースでした。
テレビアニメのお手本のような、情報量のコントロールと場面作り。


魔法つかいプリキュア9話

ハッピーエンドの銀河鉄道の夜かよ〜
佐々木憲世さんがこんな熱い演出をする人だとは思ってもみませんでした。
完敗です。
リコとみらいの関係としては、ここで完成した感がありますね、良くも悪くも
どうにも私ははーちゃんが好きになれなかったので、
このころの二人だけの世界が好きでした。


Lostorage incited WIXOSS 8話

今年はまほプリのリコ&みらいを筆頭にさまざまな熱い百合カップルが出てきましたが、
そのトリを飾るかのような森川千夏と穂村すず子。
コミュニケーションではなく、どこまでも内面に迫っていくスタイルはさすがの桜美かつし監督。


ラブライブサンシャイン 11話

「私たち」や「みんな」を掲げたラブライブに対して、
サンシャインはむしろ「個」の物語だったんじゃないかと。
その中でも象徴的なのが曜ちゃん。
そして渡邊哲哉さんのコンテがキレッキレ。
カミテシモテ芸の神やんなぁ、、、


☆あまんちゅ 2話

熱い百合カップルというところも当然ながら、
佐藤雅子さんのコンテの、カットの連続性、
コンティニュイティを強く感じた一本。
静かな作品にも関わらず、見ていて全く退屈しない、
それはカットとカットの間に退屈になる断絶がないから。
こういう作品を見ると幸せになりますね。


はんだくん 5話


作品全体としては、絶妙に面白くないのだが、
話的にも演出的にも作画的にも、
この回は群を抜いて面白い。
まさに「10選」のためにあるような作品・回だった。
清水空翔さんの一人コンテ演出総作画監督作画監督原画。
作画はもちろんなんだけど、演出のテンポの作り方が凄い良かった。
このテンポをすべての回でやってほしかったですね、、、


Bloodivores 5話

巷で話題の中国資本の日本アニメ業界への参入。
その筆頭がこのBloodivoresだ。
たまりませんね、こういうの。
こう00年代前半GONZOを感じさせてくれる。

私の推しキャラはCV速水奨さんのルー・ヤオ。
あのころのGONZOが好きだった人、中国資本を語りたい人は是非。


CHEATING CRAFT 5話

別冊コロコロコミックの名作・『究極カンニング漫画 カンニンGOOD』を思わせる、
中国資本アニメその2。
こちらはいかにもAICって感じで、またたまらないですね。
ゲストキャラの声優が丹下桜なあたりに”中国資本”のパワーが?
デジモントライをやっていた元永監督が、またこういう下らないアニメを作ってくれるのは本当にうれしい。
それにしても、中国資本アニメ、GONZO風とAIC風って、、、


信長の忍び 0話

大地監督の「笑いの呼吸」が感じられる一本。
ギャグアニメのお手本みたいな間の上手さ。
間の上手さを言葉を表現するのは難しいですが、
こういう良さを言葉に出来るようになりたいなぁ、、、




というわけで10選でした。
今年は本当に熱い百合アニメが多かったなぁ、、、

君の名は。についてのメモという名の叫び

(注意:ネタバレとか気にしないで書きます)


噂の『君の名は。』作品評を読んでしまった。

新海誠というアニメーション作家の独創性、新しさを理解するうえでほんとうに重要なのは、かれがゼロ年代という固有の時代、そしてアニメ以外のオタク系コンテンツという固有の領域とが交錯する地点で出現したイレギュラーの才能であり、だからこそ、たとえばジブリ宮崎駿高畑勲)から押井守庵野秀明を経て細田守にいたるような、戦後日本アニメ史の正統的な文脈やレガシーをじつはほとんど共有していない、いわばアニメ界の「鬼っ子」的存在だ


というやつだ。


この文章の中身についてに細かくは言わないけど


あの糸森町の草木に東映動画から名作劇場、そしてジブリを経て繋がるDNAが感じられなかったのか?

仕草で人物の内面を見せる細やかな芝居に、森やすじさん・近藤喜文さんから流れる芝居作画のDNAを感じなかったのか?

翻るスカートのそのプリーツのはためきに、うつのみやさんから電脳コイルを経て伝わるリアル作画のDNAを感じなかったのか?

宮水神社のご神体の前に流れる川のきらめきに二木真希子さんが見えなかったのか?

冒頭シーンのカメラワーク・レイアウトに板野一郎のまなざしが見えなかったのか?

爆発のエフェクトに、庵野さん、本谷さんから流れてスチームボーイを経由する輝きが見えなかったのか?

時折見せる顎のアオリにタツノコから谷口さん、湖川さんらを経てつながる立体感が見えなかったのか?



確かに新海監督は『秒速5センチメートル』まではある種の異端だったかもしれない。
しかし、『星を追う子ども』で日本のアニメの過去について意識的に模倣をしている。
https://www.anikore.jp/features/shinkai_2_6/
パンフレットにも『星を追う子ども』からの意識の変化、「古典」を取り入れることが新海監督の口から語られている。


君の名は。』では紐のモチーフが時間へと連想されて描かれている。
これは新海監督が、日本のアニメ史を含むこれまでの様々歴史と繋がっていることを自覚しているとしか考えられない。



東映長編から日アニ、ジブリへと繋がるその古典的・普遍的な要素の取り入れは
これまでも散発的に行われてきた。
君の名は。』のキャラ造形はそれを彷彿とさせる。
それが例えば、『ゼーガペイン』。
君の名は。』の安藤雅司さんがジブリを抜けるのと前後してジブリのメインアニメーターとなった山下明彦さんが
キャラクターデザインを務め、ジブリ的なキャラ造形になっている。


↑『ゼーガペイン



↑『君の名は。
山下さんは『ゲド戦記』の制作へ参加するため、『ゼーガペイン』の実制作には参加していないが、
それによって、ジブリ的なものとサンライズ的なものの「融合」がより行われることとなった。


あるいは連想したのは『銀色の髪のアギト


↑『銀色の髪のアギト
原案は『天空の城ラピュタ』の演出助手を務めた故・飯田馬之助さん。
賛否両論の作品ではあるが、キャラ造形に関してはジブリハイブリッドの一つの道を示した。
(また、『アギト』のアバンシーンとよく似たシーンが『君の名は。』にもある。
板野一郎のDNAの為せる業か)



君の名は。』の映画終盤には新海監督の過去作品のモチーフが次々と登場する。
その解説は新海ファンに任せればいい。
むしろ、『君の名は。』ラストカット。
ラストカットの背景美術はこれまでの新海美術のような「煌びやかさ」はない。
むしろそこにあるのは素朴なリアリティに寄り添った東映長編からジブリへと繋がるラインだ。


糸を縒り集めて作られた紐、『君の名は。』とは日本アニメ史の「紐」なのだ。



P.S.
奥寺先輩、めちゃくちゃ既視感あるんだけど、ジャストで思い出せない。
紅の豚ジーナか、、、?

安野モヨコ作品か、、、?

いや、もっとストレートな既視感が、、、、
この美術部ちゃんと帰宅部活動記録ちゃんくらいのが、、、、
思い出せない、、、

「父を探して」視聴後感想


「父を探して(原題:O MENINO E O MUNDO、英題:The Boy and the World)」
を見た。
最初に言いたいのは、やはり邦題の「父を探して」は良くない。
原題はポルトガル語だが直訳すれば「男の子と世界」。
英題もそれに則している。
にもかかわらず、そしてこの映画の内容にもかかわらず、
なぜ「父を探して」などというタイトルにしたのか。
そういう発想こそが、
この作品が批判したかったものではないか、と思うのだが、
皮肉にもというか、ある意味ではこの作品に流れるポジティブな諦観の的中ともいえる。


アブレウ監督はインタビューでこう答えている

「私がこの映画を制作した方法そのものが政治的なメッセージなのです。
表現の自由を求める叫び、従来の主流派のやり方との決別、
巨大なアニメ産業が私たちの息の根を止めようとしていることへの嘆き、
そして現在のアニメ産業からの独立を求める叫びなのです。
つまりこれは、アニメーションのクリエイティブな可能性についてのメッセージなのです。」


改めていうが、この邦題は良くない。
おそらくこの邦題をつけた人たちには残念ながら
「アニメーションのクリエイティブな可能性についてのメッセージ」
は届いていないのだろう。


さて、監督のインタビューからもわかる通り、凄い中二病的な作品である。
圧倒的な映像センスから繰り出される中二病的思想は、
近くは新海誠庵野秀明幾原邦彦、遠くは若き日の東映動画虫プロの若手演出家たちを思わせる。




作品の核となるのは近代社会における人間の没個性化。


ここに二つの賛否の評がある。

藤津亮太のアニメの門V 第8回せめぎ合いこそが人生「父を探して」
http://animeanime.jp/article/2016/03/04/27287.html


父を探して(原題O MENINO E O MUNDO)35点(100点満点)
http://www.tadamonkugaiitakute.com/11527.html


前者では
「この映画は「誰か」の物語であり、同時に「私たち」の物語であるのだ。」
と表現され
後者では
「一番の落ち度は、同じような顔をしたキャラがたくさんいて、
誰が誰だがはっきりしないことです。みんなこんな顔をしてるんです。
そんでもってこんな顔した少年がお父さんを探しに行くんですけど、
そもそも誰がお父さんなのかがはっきりしないんです。だってお父さんもこんな顔してるから。」


あるいは公式サイトにある解説では
http://newdeer.net/sagashite/point.html
「簡素なキャラクター造形が、それに追い打ちをかけるだろう。
登場人物たちに個別性を与えることを拒否し、「匿名」性を刻み込むのである。」
とされている。



近代の没個性的な側面とそれでも残される人間の個性というテーマはそう珍しくはない。
いや、珍しくはないというよりは、
才能ある人間はそれを強く感じて作品にするのだろう。
今石監督のようにそればかりである場合すらある。


その意味において、社会問題として描かれる「工業化」は
同時にアニメーション制作システムでもあるのだろう。
「巨大なアニメ産業が私たちの息の根を止めようとしている」
というのは具体的にはディズニーの3DCGや
日本のアニメのクソリアリズムへの事だろう。


それに対して、「原初的な手描き」で対抗しようとするアブレウ監督は
やはり日本風に言えば中二病だ。


だからこそ、邦題も「少年と世界」
にしてほしかったなぁ、、、、

「間」と魔法つかいプリキュア5話

大地丙太郎さんの著書『これが「演出」なのだっ』に次のような記述がある

「間(ま)」
何事も「間」が命です。


(中略)


たとえば、『時そば』の一節。
「そばってのはやっぱり細くなくちゃいけないね〜、
そこんとこいくってえと、おめえんとこのは……太いね」
 文字で書いても伝わりにくいかもしれませんが、
この「……」で息を吸い、止めるわけです。
その「止め」が「間」です。その息を吸うときに、
お客さんにも一緒に息を吸ってもらうわけです。
そして「太いね」で落とす。
その瞬間、吸って止めた息を一気に吐いてお客さんは笑うわけです。


(中略)


笑いの演出でなくても、たとえば緊迫したときの「間」、
普通の会話の間合い、すべてに同じことが言えるでしょう。


目には見えないが、そこにある「間」。
たまに、それを強く感じる時がある。
魔法つかいプリキュア5話はそうだった。



印象深いのは、やはりこの話数のメインであった、
みらいとリコの喧嘩と仲直り


みらいとリコが決裂するこのカット。




このリコの溜め。


そして「名前呼び」を認めるこのカット




決裂と仲直りのカットで、
類似した「間」の演出を行っている。


面白いのは、動きのプランとして「間」の呼吸を取り入れている事。
そして、
決裂では振り返り、仲直りではそっぽを向く
という逆転の芝居でリコという人間を表現していること。


この5話は、初代『ふたりはプリキュア』ほど深刻な話ではなく、どちらかというと
『スイートプリキュア』の二人を思わせる、ちょっとした喧嘩の話になっている。
それに緊張感を覚えたのは、
「間」の作りの上手さによるものだろう。


コンテ演出は最近では岸監督作品への参加が多い政木伸一さん。
カーニバルファンタズムではまさに「お笑いの間」を表現した
放課後路地裏同盟のコンテを担当していた。

是非、魔法つかいプリキュアのローテに入ってほしいですね。

魔法つかいプリキュア3話!テンポとイメージの連鎖!


魔法つかいプリキュア3話、このスピード感イメージの重ね方
こういうアニメを求めていました。


正直なところ、あまり魔法つかいプリキュアにはそこまで期待してませんでしたし、
1話、2話もそれほどグッとこなかった。
段取りをこなしている割に、状況説明が十分できてるかというとそうでもない、
という印象。
ふたりはプリキュア」を意識しているというのはわかるものの、
形は真似ていても、「ふたりは」ほどの勢いがないのではないか?と。


しかし、この3話。
1話、2話のフラストレーションを解消してあまりあるテンポの良さ!


●冒頭シーンの巧みさ
まずは冒頭



いきなりこのシーンから入るというのが、
この回の「テンポ」に対する強い意識を感じる。


本来であれば、
・自宅に連絡を取りたいと主張するミライ
・どうすれば連絡が取れるか?
・校長に聞く⇒水晶で電話出来る
・なんだって〜


みたいな段取りが必要な場面、そういうのを全部飛ばしてこのシーン。
そして
水晶の前で身振り手振りを交えながら説明するミライ。後ろで見ている校長とリコ
というカットを入れることで、
上記の説明代わりにして
ミライ・リコ・校長のキャラクター性が見える描写を入れている。



ミライの身振り手振りに表情を変える校長とリコの描写は、
この長目のカットの良いスパイスにもなっている。


冒頭から非常に巧みな組み立てと言えるでしょう。


●場面切り替えの妙
この回は場面の切り替えが非常に上手い。
OP、タイトルをシーンの切り替わりに上手く使ってるのも
好印象ですが、
やはりその次の洋服屋のシーンの上手さでしょう。




シーンの入りがまず「丸ワイプ」を使ったアイリスインから!
町の中をチンタラと歩かせずに、パッと店の前まで連れていってしまう。
この思い切りの良さ!
ワイプの○とお店の看板の形が揃っているのも映像的に面白い。


お店の中でも、「ワイプ代わり」のものが登場します。


   ドア

   布地


   鏡


洋服作りや着替えの工程をこれらの映像演出で
サクッとおしゃれに見せていくわけです。
この洋服屋でのシーンは、尺としては約2分
非常にコンパクトに、それでいてインパクトのある場面に仕上がっている。



●映像の連鎖〜○のイメージ〜
先ほどのシーンのワイプ、
洋服屋の看板と合わせて出来ていますが、
それだけではありません。


他のシーンのカットとまとめて見てみると








「○」のイメージの連鎖で繋いでいることがわかるでしょう。


そして、この「○」の連鎖はこの回のヨクバールに繋がっていく


このイメージの連鎖の背景にあるのは、
この回から声が付いた魔法の水晶(CV新井里美
でしょう。

今後、ストーリーにかかわってくると思われる
この魔法の水晶を「無意識」から印象付けようとする、
このイメージの連鎖は明らかに狙った演出。


演出は暮田公平さん。
アニメに関わる前はデザイナーだったという暮田さん
(参考:http://www.toei-anim.co.jp/tv/marie_gali/special/inside02.html
なら、こういったイメージの連鎖を軸に演出を組み立てていくのも納得がいく。
また上記インタビューで話に出てくる貝澤さん
http://www.toei-anim.co.jp/tv/marie_gali/special/inside01.html
でテンポやリズムの話をしているというのもポイントだろう。
貝澤さんの「画の旋律」という言葉は興味深い。


また、プリキュアなどの東映アニメーション作品は
1クール目はシリーズディレクターのチェックが入るという話も聞く。
これまでの1話、2話とは全く違った演出になった3話、
三塚SDに寄るものか、それとも暮田さんに寄るものか、、、、
今後のシリーズを見ていきたい。