「父を探して」視聴後感想


「父を探して(原題:O MENINO E O MUNDO、英題:The Boy and the World)」
を見た。
最初に言いたいのは、やはり邦題の「父を探して」は良くない。
原題はポルトガル語だが直訳すれば「男の子と世界」。
英題もそれに則している。
にもかかわらず、そしてこの映画の内容にもかかわらず、
なぜ「父を探して」などというタイトルにしたのか。
そういう発想こそが、
この作品が批判したかったものではないか、と思うのだが、
皮肉にもというか、ある意味ではこの作品に流れるポジティブな諦観の的中ともいえる。


アブレウ監督はインタビューでこう答えている

「私がこの映画を制作した方法そのものが政治的なメッセージなのです。
表現の自由を求める叫び、従来の主流派のやり方との決別、
巨大なアニメ産業が私たちの息の根を止めようとしていることへの嘆き、
そして現在のアニメ産業からの独立を求める叫びなのです。
つまりこれは、アニメーションのクリエイティブな可能性についてのメッセージなのです。」


改めていうが、この邦題は良くない。
おそらくこの邦題をつけた人たちには残念ながら
「アニメーションのクリエイティブな可能性についてのメッセージ」
は届いていないのだろう。


さて、監督のインタビューからもわかる通り、凄い中二病的な作品である。
圧倒的な映像センスから繰り出される中二病的思想は、
近くは新海誠庵野秀明幾原邦彦、遠くは若き日の東映動画虫プロの若手演出家たちを思わせる。




作品の核となるのは近代社会における人間の没個性化。


ここに二つの賛否の評がある。

藤津亮太のアニメの門V 第8回せめぎ合いこそが人生「父を探して」
http://animeanime.jp/article/2016/03/04/27287.html


父を探して(原題O MENINO E O MUNDO)35点(100点満点)
http://www.tadamonkugaiitakute.com/11527.html


前者では
「この映画は「誰か」の物語であり、同時に「私たち」の物語であるのだ。」
と表現され
後者では
「一番の落ち度は、同じような顔をしたキャラがたくさんいて、
誰が誰だがはっきりしないことです。みんなこんな顔をしてるんです。
そんでもってこんな顔した少年がお父さんを探しに行くんですけど、
そもそも誰がお父さんなのかがはっきりしないんです。だってお父さんもこんな顔してるから。」


あるいは公式サイトにある解説では
http://newdeer.net/sagashite/point.html
「簡素なキャラクター造形が、それに追い打ちをかけるだろう。
登場人物たちに個別性を与えることを拒否し、「匿名」性を刻み込むのである。」
とされている。



近代の没個性的な側面とそれでも残される人間の個性というテーマはそう珍しくはない。
いや、珍しくはないというよりは、
才能ある人間はそれを強く感じて作品にするのだろう。
今石監督のようにそればかりである場合すらある。


その意味において、社会問題として描かれる「工業化」は
同時にアニメーション制作システムでもあるのだろう。
「巨大なアニメ産業が私たちの息の根を止めようとしている」
というのは具体的にはディズニーの3DCGや
日本のアニメのクソリアリズムへの事だろう。


それに対して、「原初的な手描き」で対抗しようとするアブレウ監督は
やはり日本風に言えば中二病だ。


だからこそ、邦題も「少年と世界」
にしてほしかったなぁ、、、、