アニメセカイ系
大先生の最新のエントリー(http://sukebeningen.blog46.fc2.com/blog-entry-176.html#comment_area)について言うと、
大先生の頭の中のアニメには
「物語⇔作画」しかない。
幾原の
『恋愛問題や家族問題のようなきわめて身近な話題と、世界の破滅のようなきわめて抽象的な話とが、彼らの感覚ではペタっとくっついてしまっている』
という言葉を用いると、
大先生の感覚では
『物語と作画がペタっとくっついてしまっている』
のだ。
実際
>アニメにおいて物語とアニメート表現は有機的に繋がってる。切り離せない。
って書いてるし。
でも実際には、
「僕たち」と「セカイ」の間に「社会・世間」があるように、
「物語」と「作画」の間には「演出」が存在する。
「僕たち」が直接「セカイ」をどうこう出来ない、また「セカイ」が「僕たち」と直接は関係ないように、
「物語」と「作画」は互いに直接には関与出来ない。
「演出」を介してのみの関係なのである。
こういう風に見れば、なぜ監督=演出家なのかも分かるでしょう。
「物語」は確かに、物語を破壊するような作画を拒否する。
逆もしかり。
ただ、「演出家」は物語を破壊するような作画を要求することはある。
あるいはそういうアニメーターを起用する。
「自分には思いつかないような映像がほしい」というのも
「演出家」の一つの判断だ。
だから現状では「作画」はまったく問題ない。
常に凄腕の使い手を待っている名刀のようなもの。
ベルセルクのガッツを待っている「ドラゴン殺し」。
「作画」が凄くなればなるほど、使いこなせる者は少ないだろうが、
使いこなせた時は凄い。
つまり「作画アニメ」とは名刀の品評会なのだ。
名刀もしっかりと磨かれ、保管されなければあっという間に錆びてしまう。
誰かが「この刀は名刀だ」と言わなければならない。
そのためのアニメオタク、そのための作画オタクなんだと、俺は思う。
結論
アニメオタクあるいはアニメ評論家というのは
ストーリーオタクで演出オタクで作画オタクで背景オタクで音楽オタクで色彩オタクで
コンポジットオタクで声優オタクで商業オタクで編集オタクで(ry
なければならない