逆襲のシャア〜富野とクェスと出崎〜


前にshiwasuさんのところ(http://shiwasu5.blog12.fc2.com/blog-entry-15.html#comment4
で宣言して書こうと思っていたことを書くために逆シャアを見直した。


見直して、さらに確信を深めた。
クェスは富野の中の「俺出崎」への挑戦だったと。


まず、「逆襲のシャア」はどういう物語だったのか。


多分、それまでの「ガンダムシリーズ」を見てきた人にとっては
アムロとシャア」という二人の男のぶつかり合いの
物語だろう。


そこから、「偽善 VS 独善」という構造を見出すことも出来る。
庵野だかが、「アムロとシャアはどっちも富野さんなんだ」
というようなことを言っていたのもそうだろう。


ただ、この「逆襲のシャア」にはこの構造では理解出来ない、
しかもめちゃくちゃ大きい存在がいる。
それがクェス・パラヤだ。


そもそも、クェス・パラヤは富野キャラとしては異質だ。


それは逆シャア内の他の女性キャラと比べてもいいし、
他の富野作品と比べてもいい。
富野描く女性キャラはみな「大人」だ。
これは同時に「いつまでも子供じみた男」との対比でもある。


ガンダムシリーズだけで見ても、
フラウ・セイラ・マチルダ・ファ・フォウ


それがクェスは違う。
彼女の力強さというのは普段の「富野」とは違う。


これには一つ、キャラクターデザインの問題があるだろう。
shiwasuさんの
http://shiwasu5.blog12.fc2.com/blog-entry-11.html
http://shiwasu5.blog12.fc2.com/blog-entry-9.html
でもある通り、安彦と富野との間には志向への大きな隔たりがある。


しかし、富野は安彦の腕を認めてるから、
あの絵を否定出来ない。
それは湖川にしても同じ。


ところが、その下の世代である北爪には富野は強く言える。
「フラットキャラにしてんじゃねーぞゴラァ!」と言える。
例の「おまんこの臭い」発言も一つとしてはこの結果だろう。


さて、結論に行く前に、「監督とキャラデザ」の関係について簡単に話そう。
上述の通り、富野と安彦は互いに否定し合い高め合う関係の監督とキャラデザだった。
どちらが主でも従でもなかった。


では出崎と杉野というコンビはどうか。
これは完全に出崎が主で杉野が従である。


かつて富野は
「出崎作品があれだけ素晴らしいのは杉野さんや椛島さんのような
素晴らしいアニメーターがいたからだ」
というようなことを何かで言っていた。


これは安彦良和が彼らに劣ってるという話ではない。
彼ら、特に杉野昭夫が出崎の「従」であったというところに富野の真意があるように思う。


話を戻そう。



まず、視聴者としての直感としてクェスは凄く「出崎キャラ」なのだ。
多分、「富野キャラ」はアムロに面と向かって
「あんたちょっとセコイよ」とは言わない。
チェーンのように「アムロ時々怖い声するよね」と和やかに言ったり、
あるいはナナイのように、男がいなくなった後でグラスを投げたりはする。
(出崎キャラなら面と向かって言いまくり、GENJIとか)


そうすると、見えてくるものがある。
逆シャア」はクェスに関わる部分だけは


>「意識の流れ」と「ドキュメンタリズム」、
>そして「映画を撮りたければ映画俳優を連れてこいよ」
http://shiwasu5.blog12.fc2.com/blog-entry-14.htmlより)
で出来ている。


アムロとシャアは完全に「演劇的」なのに、クェスにだけは
ドキュメンタリズムがある。
そもそも、クェスには演劇的な存在理由がない。
別にクェスがいなくても逆襲のシャアという演劇は完成している。
逆シャアは群像劇ですらないから。


ではクェスはなんだったのか。
もちろん「ララァ」だ。
ララァは出崎的ではあったが、
ガンダム」自体は安彦の妨害もあって、出崎的ではなかった。


「クェス」はまさに「ララァ」のリベンジ。
より「出崎」という引き出しをストレート使っている。
安彦の妨害もない。
北爪は従わせればいい。


でも、富野はこのクェスを出崎チックにしすぎた。
明らかに「アムロ・シャア」とクェスとのバランスが取れていない。
だからクェスはアムロにもシャアにも相手にされない。
ララァの身代わり」という演劇的な役割すら与えられない。
仕舞いには「私ってララァの身代わりなんですか?」とか
自分で言って適当にあしらわれる始末。


「出崎」という引き出しから出てきたものが完全に暴走し、
演劇を引っかき回し、そして勝手に退場していく。


富野伝説の中で「クェスのおまんこの臭い」話がこれだけ大きく広まったのは
それだけ、富野という男が「クェス」という「映画女優」に
入れ込んでいたからなんだろうと、
思うわけです。


そして演劇の中に一人台本を渡されていない者を送り込むというのは
即ち、「演劇の破壊者」の所業と繋がるのだろうと。