出崎版ベルばらについて、あるいはオスカルとオトメ


このあいだ、「舞乙はベルばらのif的なところながある」
という話をして。
ベースには吉野弘幸が歴史の教師だったというのもあるのだけれど、
それよりもはやっぱり出崎版ベルばら、
出崎監督のオスカルの解釈にある。


出崎版ベルばらの終盤の展開というのはまさに賛否両論、
いや、原作ファンからは大バッシングを受けていたようだ。
もう何十年も昔の話なのにもかかわらず、
いまだに昨日のように出崎版を叩く人が実際に存在する。


では、何がそんなに違ったのか。
それはやはりオスカルがマリーと袂をわかち革命軍に下るあたりにある。


オスカルはなぜマリーを捨てて革命軍に下ったのか。
原作ではオスカルはフランスのため、自由のためであることは明白だ。
その証左であり、かつ、原作ファンのアニメへの最大不満でもあるのが、
原作のオスカルの最後の台詞
「フランス万歳」だろう。


彼女はフランスのためにマリーと名誉と地位を捨てて野に下ったのだ。


しかし、これが出崎監督には気に食わなかったのだろうと思う。
「フランスのため」「自由・自立のため」というなら
オスカルはマリーや王に対してもっと働きかけをすべきだったし、
マリーは最後まで女王であったのだから、
彼女と強引にでも向き合うべきであった。
それをせずに胡散臭さ満点の革命軍に下ると言うのはどういうことか。
そもそも「フランスのため」なんていうのは
出崎がもっとも嫌いそうなこと。


そこで、出崎は「オスカルはアンドレのため、愛のため」にマリーを捨てて
革命軍に下ったという風に改変した。
出崎版ベルばらのオスカルは、
「性別を超越している」原作とは全く正反対に
完全に女の子であった。
さまざまな恋の鞘当、女であることの放棄があればこその
女の子・オスカル。
だから彼女は最後に「フランス万歳」などと無粋なことは言わない。
「アデュー」と言って死ぬ。


ここらへんの話は
http://bbkids.cocolog-nifty.com/bbkids/2007/09/post_8de4.html
でも同様のことが取り上げられている。

 「私の考えを言おう。いや、私は自分の取るべき道をのべる。全く個人的にだ。
私は今、この場で諸君の隊長であることをやめる。なぜなら私の愛する人、私の信ずる人が諸君と同じように民衆に対し発砲をしないと思うからだ。私はその人に従おうと思う。その人が民衆とともに戦うというなら私は戦う。諸君、私はアンドレ・グランディエの妻となった。私は夫の信ずる道をともに歩く妻となりたい。
アンドレ、命じてくれ。アンドレのゆく道は私の信ずる道だ。」

うむ、わかりやすい。


そして、この出崎の不満点を解決し、
「もしオスカルがマリーを選んでいたら」というのをやったのが舞乙であろう、と。
もちろんアリカがオスカルで、マシロがマリー。


出崎版ベルばらとの対比で言うと、
出崎版オスカルのラストと対応するのが
オトメになるアリカに対するナツキの台詞

恋を諦め、女としての幸福を捨て、主のために命を掛ける。
それがオトメになるということだ

となる。
恋を諦めず、女としての幸福を得、主を捨てた出崎版オスカルとは正反対の生き方。
それがオトメだと。