へうげもの〜原作は左介、アニメは宗易となすか


アニメのへうげものが面白い。
だが漫画も面白いという。
最近、「原作が面白いのであればアニメを見る必要はない」
「オリジナルアニメの方がわくわくする」
「どの道アニメでも原作と程度の面白さにしかならない」
という声を聞く。
どうなんだろうか?


先日、会社の先輩に「へうげものという面白い漫画があるらしい」
と言ったら、早速買って読破したらしい
それで「良ければ貸すよ」と言われたので遠慮なく借りて読んでみたのだ。


その内容や、意外に意外に。
ストーリーはほぼ同じ、台詞もほぼ同じ
ただし、感じられる時間の流れがまったくの別物。


原作はアニメから想像していたのとは比べものにならないくらい、
軽快なテンポのコマ割りの漫画だった。


漫画についてはオタク以前の俺だが、
それでも、この漫画の軽快さが
横に細長いコマや小さいコマの絶妙な使い方くるものであることは
すぐに分かった。
そして無言のコマもそういった細かいコマで重ねている。


この小気味の良さ、まさに古田左介の数寄と潔さを感じさせる。


一方、アニメはどうか。
原作と見比べるとわかりやすい。
相当に原作通りに作られている一方で
漫画のコマのコマの間を埋めるようなカット、
コマを拡大解釈するようなカットが非常に多い。


もちろん、台詞の多い漫画であるということもある。
だが、俺が簡単に測ったところでは、
原作1ページに平均して約25秒といったところか。


漫画を読むスピードは人それぞれとはいえ、
俺が普通に読むと1ページに5秒は掛からなかった。
黙読と音読の差ということもあろうが、
それにしても歴然とした差である。


それでいて、「ドラゴンボール」のような「時間稼ぎ」はまったく感じない。
原作未読の状態では、きっと原作もこのテンポであろうと思ったくらいだ。
このアニメが評判が良いところを見ても、
これについてはそんなに各人の感覚の差はないのではないか。


また、見比べていくと、
細部の差がまた面白い。


たとえば、このカット

原作を持っている人は是非見比べてほしい


そう、左右が逆になっているのだ。
他の部分においては、漫画のコマをそのまま使っているが非常に多いのにもかかわらず、
このカットはわざわざ左右逆にしている。
何も考えずにコンテを切れば、そんなことをする必要はない。
ではなぜ。


その前のカットを見ると、このなぜのヒントがある

このカットだ。
この左介のカットは、ほぼ原作のコマどおり。
原作では細かくコマを割っているが、
アニメではこのカットで原作の3コマ分を充てている。
(原作では笑う武人のコマが入る)


コマを細かく割った原作と違い、
この左介のアップで持たせている分、
次のカットでの転換が重要になる。
そこで、上の信長のカットとなるわけだ。
カメラを切り返して、句点としているわけだ。


台詞的にも、信長が本題を切りだすカット。
ここでアクセントをつける必要がある。
(さらに次のカットは真下お得意のサカサマカットだしw)

そして、それだけではない。
このアニメと原作を見比べるとたた起こる現象、
まさにこのカットがその最初の一歩


例えば秀吉のこれ

あるいは信長のこれ

あるいは利休のこれ



そして極め付けは

これ。
特に左介が宗易に弟子入りするカットなどは
その上の初対面のカット合わせて、
この上手下手で、映像的・絵画的に大きく意味が変わるカット言っても過言ではないもの。


原作の方が解釈はしやすい。
右(上手)に師となった宗易、左(下手)に弟子となった左介
非常にわかりやすい。
ではなぜアニメでは逆にしたのか


一つには「下手の暴力性」という解釈。
「黒」と「黒子」を掛けようというものでもないが、
山内演出のレールガンの記事で書いたものと同じ考えだ。
下手の暴力性、侵略性は「へうげもの」の宗易の思想と合致しているように思われる。
そういう意味では宗易の色・「黒」を悪、白を善という風に考えるのもまた一考。


だが、俺の非常に個人的な解釈はまた別にある。


それは、真下監督が宗易にこそ入れ込んでいる、感情移入しているからではないか
という解釈だ。
別に真下監督のインタビューなどがあるわけではない。
ただ、真下監督作品から俺が感じるものと、
へうげもの」の宗易に似た匂いを感じるのだ。


原作者は左介に入れ込んでいるように思う。
つまり。左介から見て、つまりは原作者から見て、宗易を「はるか上」と思ったのとは裏腹に、
宗易もまた、左介を見て、自分にはない輝きを見たのではないか。


そうだとすれば、宗易=真下監督が左介を上手に置くというのも合点がいく。
潔さと笑い、そのようなものへの憧憬のまなざしが、
下版へうげものから感じれるのだ。