第二回 藤津亮太さんのレビュー(短評)の書き方講座〜秒速5センチメートル編〜を受けてきた


藤津さんのレビュー講座の第二回目に行ってきました。


今回の課題は『秒速5センチメートル


前回の『となりのトトロ』は、小さい頃から何十回と観ていて、
自分の中でどういう作品か、という部分が固まっていました。
なので、割かし楽に書けたし、
ヒネリを入れる余裕もあったのです。


でも、今回の『秒速』は、結構前に1・2回観たきりで、
その後は、観てない。
そして、前に観たときは、あんまりピンと来なかったので、
そのままにしてた、というわけです。


●書くにあたって
とりあえず、この『秒速』については、私はいわば初心者なので、
「世に全く新しい観方を伝える」というよりは、
私の中の作品の土台みたいなものを固める過程を伝えよう
という方向で書くことに。


そして、映像をみていく内に、
なんで、前に見たときにはピンと来なかったのか。
自分の中でしっくり来なかったのか、
という部分がわかってきました。


言ってしまえば、秒速のストーリー構成・映像の第一印象や新海監督の発言と、
この作品にギャップがあるのではないか、ということです。
その部分について、思ったことをそのまま書いていきました。


●提出文
そして、出来たのが↓

掲載媒体:アニメ誌


タイトル:『秒速5センチメートル』の違和感


 まるでドキュメンタリーのようだ、それがアニメーション映画『秒速5センチメートル』を最初に見たときの感想だった。


 『秒速5センチメートル』は2007年に公開された新海誠監督の4作目の作品である。監督の新海誠が一躍脚光を浴びることになったのは2作目『ほしのこえ』だった。彼の作品の特徴は、写真を元にした精密でかつ幻想的な背景美術であり、それは今までのアニメの歴史の中でも類を見ないものであった。美術の美しさとSF的な設定、そして登場人物の心情の3つが『ほしのこえ』そして3作目の『雲のむこう、約束の場所』を彩る要素であった。


 『秒速5センチメートル』では上記2作品と異なり、SF的な、あるいは非現実な要素はなかった。新海誠自身も「この作品には、他の多くのアニメーション作品に見られるようなSFやファンタジーなどの架空の要素は登場しません。そのかわり徹底したロケハンを行い、今この現実をアニメーション表現の中にすくい取ろうと試みています。 」と紹介記事に書いており、現実をアニメーションに落とし込むことがこの作品の目指すことだと示唆している。


 実際に映画にはロボットも出てこなければ、魔法や超能力も出てこない。出てくるのは、実在する豪徳寺駅やJRの各線、そして沖縄だった。現実的な世界で、遠野貴樹、澄田花苗、篠原明里の三人は美しくも苦い青春を送っていく。小学生、中学生、高校生、そして社会人と成長していく遠野貴樹の人生をそのまま捉えたドキュメンタリー映画のようだった。


 しかし、そう感じると同時にすぐには言葉には表せない違和感もあった。


 そこで、『秒速5センチメートル』を見た幾人かと意見交換を行った。その中で違和感として、「貴樹は中学生なのに言葉選びが大人びている」「豪徳寺駅は2000年前半に高架工事があり、第1話の頃には高架以前なのではないか」「電光掲示板もLEDなのは時代的におかしい」などの意見が出てきた。そして、解決の糸口になったのは「桜の花の落ちるスピードは実際は秒速5センチメートルではない」という事実だった。


 この事実についてはアニメ評論家の藤津亮太も「アニメージュオリジナル」において指摘している。それによれば、桜の花が落ちるスピードはおよそ秒速50センチメートルであるという。また花びらを模した薄紙を使用した簡易的な落下実験でも、秒速5センチメートルという速度が遅すぎることを確認出来る。


 新海誠がこの「桜の花の落ちるスピード」について気づいていなかったとは思えない。アニメーションという動きを表現する手法を使っていれば、おのずとその事実に行き着くはずだ。つまり、現実とは違うと知りつつ『秒速5センチメートル』をタイトルにし、最初の台詞にしたとしか思えない。この事実を受け入れた時に、『秒速5センチメートル』への見方が180度変わった。この作品で表現されているものは、ドキュメンタリーのような、現実をそのまま記録したものではなく、夢や記憶のような心象風景なのだ。


 記憶やリアルな夢というのはほとんど現実と区別が付かない。しかし、ところどころ現実と違っていて、記憶違いや理想や無意識が反映される。「桜の花が秒速5センチメートルで落ちる」というのもそういった、夢や記憶と現実の違いなのだ。


 そう考えたときに、違和感の正体がはっきりした。現実をそのまますくい取ったにしては、『秒速5センチメートル』の背景美術や彩色や光、山崎まさよしの楽曲は美しすぎたのだ。それが、遠野貴樹の、そして新海誠の夢であり記憶であるならば、その美しさも納得がいく。


 ここで、最初の新海誠の言葉に立ち返ると「今この現実をアニメーション表現の中にすくい取ろう」という、現実とアニメーションの関係は、現実と夢の関係と似ている。写真を加工して色や光を足すのは、あたかも私たちが肉眼でみた風景を寝ている間に脳が再現しているかのようだ。新海誠はアニメーションという手法で、夢や記憶という頭の中にしかないものを形にしたのだ。


 『秒速5センチメートル』で描かれているものは、遠野貴樹のドキュメンタリーではなかった。遠野貴樹 の背景となる、秒速5センチメートルで花びらが落ちる夢だったのだ。 そう考えた時、私は『秒速5センチメートル』を違和感なく理解できるようになった。


約1800字。
「フリ」と「オチ」については、決めておいたのですが、
考えながら書いていくと、この分量になってしまいました。


ドキュメンタリーという言葉は、出崎統監督の作品に対してよく使われる言葉を援用。
心象風景は、榎戸洋二さんのウテナ脚本集での

心象風景――夢とか記憶とか――と映像作品には共通するものが多くある。文法が似ているのかもしれない。
(その方程式を解けば、案外、現実を解体できるのでは、と僕は考えている)

という言葉からのインスパイア。



また、正直、この『秒速』が一般的にどのように受け入れられているのか分からなかったので、
クドイ感じになってしまいました。

●藤津さんの添削
そんなわけで、添削の内容

(1)ドキュメンタリーかと思ったら「夢」だったという構成は明確。


(2)言葉がちょっと多くて、もってまわった形になっているところが多い。
しかし、そう感じると同時にすぐには言葉には表せない違和感もあった。

しかし、言葉に表せない違和感も残った


「も」で「同時に」というニュアンスが出せる。
なお、「残った」にすると、「見終わった後に、胸の中に残った」感じが出る
「ある/あった」だけだと、意味としては分かるけど、そういう動きのニュアンスがでない。


(3)トモダチは必要か。「いろいろな意見がある」ならば自分以外の人が原稿に出てきても違和感がないが、
 自分の意見が固まっているなら、わざわざ登場させなくてもいい。あとこの例が、「夢」を裏付けていない


(4)示唆する は「それとなくほのめかす」だから誤用。


(5)種子島は鹿児島県  


(6)ラスト一文は無くても伝わる


(2)については他にも、
実際に映画にはロボットも出てこなければ、魔法や超能力も出てこない。
という部分、特に後半は不要なのではないか、という指摘も受けました。
また、「魔法や超能力」という部分をどうしても入れたいなら、
キャラクターの方に掛けた方がいい、との事。


文章の洗練についてはさすがですね。
元の文章は、私の頭の中での動きをそのまま書いてしまっているので、
説明過多な割りに、言葉が練られていない。


(3)は、「この文章を書いている時点では結論が出ているのだから、わざわざ登場させなくてもいい」
という考え方。


ここらへんは「『秒速』はドキュメンタリーじゃない」という意見の
一般性がどのくらいあるのかが分からなかったので、その予防線として入れたというのもあって。
ただ、今回の他の受講生のレビューを見ても、
この考え方は、そんなに変なものでも無さそうなので、
その後にも繋がってこないので、カットしても問題ないですね。


(4)も予防線系。
  「新海の発言はそういう意味じゃない!」みたいな批判をかわすため
  「示唆」という言葉にしちゃった感じですね。


(5)は凡ミス。


(6)はブログの文章としては、このラストの一文が私にとっては必要なのだけど、
   レビューとしては「誰もお前が理解できたがどうかなんて気にしてないから」という感じでしょう。
   自分のための文章か、他人に向けた文章か、の差、というなんでしょうね

   
   また、終わり方は、ラスト一文無くせば綺麗の終わってる、との事。


●修正版
というわけで修正

秒速5センチメートル』の違和感


 まるでドキュメンタリーのようだ、それがアニメーション映画『秒速5センチメートル』を最初に見たときの感想だった。


 『秒速5センチメートル』は2007年に公開された新海誠監督の4作目の作品である。監督の新海誠が一躍脚光を浴びることになったのは2作目『ほしのこえ』だった。その特徴は、写真を元にした精密でかつ幻想的な背景美術であり、アニメの歴史の中でも類を見ないものであった。美術の美しさとSF的な設定、登場人物の心情の3つが『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』を彩る要素であった。


 『秒速5センチメートル』では上記2作品と異なり、SF的な要素はなかった。新海誠自身も「この作品には、他の多くのアニメーション作品に見られるようなSFやファンタジーなどの架空の要素は登場しません。そのかわり徹底したロケハンを行い、今この現実をアニメーション表現の中にすくい取ろうと試みています。 」と紹介記事に書いており、現実をアニメーションに落とし込むことがこの作品の目指すことだとしている。

 実際、映画に出てくるのは、実在する豪徳寺駅やJRの各線、そして種子島だった。現実的な世界で、遠野貴樹、澄田花苗、篠原明里の三人は美しくも苦い青春を送っていく。小学生から社会人まで成長していく遠野貴樹の人生を追ったドキュメンタリー映画のようだった。


 しかし、言葉に表せない違和感も残った。


 違和感解消の糸口になったのは「桜の花の落ちるスピードは実際は秒速5センチメートルではない」という事実だった。この事実についてはアニメ評論家の藤津亮太も「アニメージュオリジナル」において指摘している。それによれば、桜の花が落ちるスピードはおよそ秒速50センチメートルであるという。また花びらを模した薄紙を使用した簡易的な落下実験でも、秒速5センチメートルという速度が遅すぎることを確認出来る。


 新海誠がこの「桜の花の落ちるスピード」について気づいていなかったとは思えない。アニメーションという動きを表現する手法を使っていれば、その事実に行き着くはずだ。つまり、現実とは違うと知りつつ『秒速5センチメートル』をタイトルにし、最初の台詞にしたとしか思えない。この事実を受け入れた時に、『秒速5センチメートル』への見方が180度変わった。この作品で表現されているものは、ドキュメンタリーのような、現実をそのまま記録したものではなく、夢や記憶のような心象風景なのだ。


 記憶やリアルな夢というのはほとんど現実と区別が付かない。しかし、ところどころ現実と違っていて、理想や無意識が反映される。「桜の花が秒速5センチメートルで落ちる」というのもそういった、夢や記憶と現実の違いなのだ。


 そう考えたときに、違和感の正体がはっきりした。現実をそのまますくい取ったにしては、『秒速5センチメートル』の背景美術や彩色や光、山崎まさよしの楽曲は美しすぎたのだ。それが、遠野貴樹の、そして新海誠の夢でありならば、その美しさも納得がいく。


 ここで、最初の新海誠の言葉に立ち返ると「今この現実をアニメーション表現の中にすくい取ろう」という、現実とアニメーションの関係は、現実と夢の関係と似ている。写真を加工して色や光を足すのは、あたかも人間が肉眼でみた風景を、寝ている間に脳が再現しているかのようだ。新海誠はアニメーションという手法で、夢や記憶という頭の中にしかないものを形にしたのだ。


 『秒速5センチメートル』で描かれているものは、遠野貴樹のドキュメンタリーではなかった。遠野貴樹 の背景となる、秒速5センチメートルで花びらが落ちる夢だったのだ。 


約1500字。
大分すっきりしたかな?



そんなわけで、『秒速5センチメートル』のレビュー講座、なかなか面白かったです。
添削の内容もそうですが、
他の受講者のレビューもためになりました。


前回の「トトロ」は、一般的にこの作品がどう思われてるか、とか
どういう見方があるか、ということもほとんど分かっていましたが、
この『秒速』については、
それが分かっていなかったので、
いくつかの「見方」が認識できたのが良かったです。



ただ、実は、『秒速』について、今回の文章は、
この作品の中身に対する感想の前準備的なものなので、
機会があったら中身の感想についても書きたいなぁ。


というわけで、ラストはこれで

「この紅葉、落ちるのはきれいだけど、落ちてるのは汚いだけよね」


               『ブギーポップは笑わない』 第一章より