耳をすませばを見ると

欝になるっていう半分冗談の言説がネットだと結構前から流行っているようだ。

トボフさんの
http://d.hatena.ne.jp/tobofu/20070722
とかでも
そんなことが書いてある。


欝になる人曰く
「自分とは縁のなかった高校生活の青春を見せ付けられて苦しくなった」



ということらしい。
わからん。
こういう人達は例えば、同人誌を制作に熱中する腐女子達を見ても
苦しくなるのだろうか?


何かに熱中する、何かに熱意を持って取り組むという体験を
オタク気質の人は結構してると思う。
それはゲームであったり、小説であったり、漫画であったり
スポーツであったり、勉強だったり。
何かは分からないし、才能がなくてそれが職業にならなかったとしても、
その熱意は熱意。


耳をすませばってそういう話だと思ってた。
雫って凄くオタク気質だよね、って。
カッコいい男が近くにいるのに、
猫の男爵とファンタジー世界を旅する妄想に浸る女の子。


作品自体も高河ゆうバリの
独り言めいた世界観で、「明るい青春」とは程遠いように思う。
むしろ「もがき苦しむ青春」だろう
そしてそれが魅力的な作品だと、放映当時感じた。


とはいえ、今この映画を見ると俺も憂鬱な気分になる。
それは別に青春時代云々ではなく、
主人公の雫に故・近藤喜文氏を見てしまうからだ。


近藤喜文さんは押しも押されぬスーパーアニメーターだが、
Aプロ・テレコム周辺では決して天才ではなかった。


井上俊之曰く
>近藤さんは、青木さんとは対照的で、天才肌ではないんだけど、
>アニメに対する情熱でいいアニメーションを手がけたよね。
だそうだ。


まさに命を削ってアニメを作り続けた近藤喜文さんの情熱を、
全てをかけて物語を書いている雫に見てしまう。


「生きるつらさ」について上記のトボフさんのブログに書いてあるが、
雫というキャラを通して近藤喜文という人間を見てしまうと、
この映画以上に「生きるつらさ」と「生きる楽しさ」を考える作品は
そうそうないのではないだろうか。


仮に人並み以上の才能があって、命を削って原画を描いて、
自分以上の新しい才能に嫉妬して、原画を描いて描いて描きまくって死ぬ、
そういう生き方。
雫というキャラもこういう後世を送るんじゃないかと、
思ってしまう。
そういう生き方に憧れる反面、そういう生き方に抵抗もある。


最近、身の回りでもアニメ界でも若くして亡くなる人が多いので、
ちょっと書いてみた。