サマーウォーズと劇クラナド


666さんのサマーウォーズの記事(http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20090901/1251815366
は完成されているので、わざわざ言うこともないのだけれど、
コメント欄が相変わらず面白い。
666さんのエントリーはまったくもってサマウォを否定してないんだが、
一部のファンにとっては、否定に映るらしいというのが
非常に興味深い。


さて、そんなことは置いておいて、
個人的にはサマーウォーズは「家族」がメインの話だったと思うわけです。
まあ掘り下げは浅いんだけれども。


で、「家族」をテーマにしたアニメ映画というものを考えると、
やはり俺は、劇場版クラナドがまず思い浮かぶ。


・大家族
・強引なヒロイン(年上)
・亡くなる家族の大黒柱
・才能はあるがどこか屈折した主人公


ただ、一つだけ大きな違いがある。
サマウォが正真正銘の血縁ある大家族を扱ったのに対して、
クラナドでは擬似家族を扱っている点だ。


なぜ、擬似家族なのか。
いや、むしろ逆か。
なぜ今、血縁ある大家族を扱ったのか。


そこにこの物語で「ネット」が出てくる必然性がある。


閑話休題
セカイ系ってあるじゃないですか。
非常に近しい事柄と非常に遠い事柄がピタッとくっ付いているという、アレ。


1、僕と私⇔世間⇔世間⇔・・・⇔世間⇔世界
という構図で「世間」がないのがセカイ系


まあ、ちょうど時事ネタの選挙を思い浮かべるのが一番わかりやすいでしょう。
選挙で立候補者を選んでも、投票者の希望がそのまま、
国連かなんかで実現されることはまずありません。
それが何か凄い力で、政党とか政府とか全部ぶっ飛ばして、さらに国連も飛ばして
俺の気分で世界が回ってるぞ〜、みたいな感じがセカイ系


つまり
2、僕⇔世界
こういう構図。



さて、サマウォでは「世間」にあたる部分も「大家族」として描いておいて、
「ネット」というツールを使って「大家族」と「世界」を繋いでしまう。


3、「僕」⇔「大家族」(⇔ネット)⇔「世界」


1の構図と比べると大分簡略されて、2とは違って世間もある。
つまり目的としては、この「家族」と「世界」が繋がっている感、
これが「サマーウォーズ」のやりたかった事なんだろうと思う。
世界に繋がるための家族の大切さとか、
家族と世界を繋げるネットの凄さとか。


・で、「家族」について
さて、サマーウォーズでは「ネット」という超能力によって
「家族と世界が繋がっている」事を演出したわけだが、
逆に「家族と世界は繋がってないよ」ってのをやったのが劇場版クラナド


原作のクラナドはむしろサマーウォーズ的だったのかもしれない。
つまり


4、僕と私 ⇔ 家族 (⇔街) ⇔世界


という、「街」の不思議パワーで「世界」と繋がっているという構図。
こう見れば3(サマウォ構図)との類似がわかるだろう。


でも、家族とか街とかっていうのは「世界」に繋がるための道具に過ぎないの?
という深みに嵌ったのが出崎統
結局は「だんご大家族」は渚の死に対して無力。
世界を変えるなんて出来やしない。


でも、じゃあ家族に価値はないのか。
世界と繋がっていない、渚を生き返せない家族に価値はないのか。
勿論ある。
それが劇場版クラナドだったように思う。


もっと言えば、それは「家族」に限らない。
だから「擬似家族」なのだ。
それは家族でも友達でも学校でも会社でもいい。
「世間」と呼ばれるもの一般。
セカイ系」で省略されたものの大切さ。



だから、劇クラナドが頭にある状態でサマーウォーズを見ると、
「家族」の考え方として、それでいいのか、と思ってしまう。
そんな単純化していいのか、と。



まあ一言で言っちゃえば「掘り下げてない」なんだけど、
ここまで長々と書いてしまうのは、細田守に対する感傷ですかね。