演出と脚本
演出家の仕事はいかに脚本の短所をカバーし、かつ長所をいかすかであろう。
そのためには脚本を根本から変えることも、脚本をそのまま使う事もあるだろう。
このなんとか電磁砲という作品を物語論的に見てみると非常に難しい事をやっていることがわかる。
つまり、「この物語の主人公は誰なのか」ということである。
演劇的物語論においては「変えられる人間」が主人公である。
ドラえもんにおける「のび太」(変えるのはドラえもん)
ドラゴンボールにおける「悟空」(変えるのはブルマ)
ワンピースだと「ルフィ」(変えるのはシャンクス)
このアニメは最初、「ミサカ」が変えられる人間かと思った(変える側は黒子)
でもちょっと見ていくと、「ウイハル」と「サテン」というキャラが出てくる。
ここでまた一見すると、
「ウイハル」=変えられる側
「サテン」=変える側
と見える。主にスカートめくりの描写によって。
しかし、この「ウイハル」「サテン」が「ミサカ」「黒子」と合流すると
また状況が変わる。
ここでは「サテン」が変えられる側となる。
つまり、高レベルの人間へ対する偏見とかお嬢様への偏見とかそういったもの。
さらには、唯一今まで街の治安に関わらなかったであろう立場。
そこからラストの「超能力を使わない男の子の救出」へと繋がる。
ここまで非常にテクニカルに物語が進んでいく。
このテクニカルな物語を、長井龍雪がお得意の群像劇(ハチクロ・とらドラ)
として纏めてしまったのが、
電磁砲1話のカット割りの気持ち悪さと分かりにくさなのではないだろうか。
少なくとも、この物語の構成は群像劇ではない。
「サテン」の話でオチを作ってるからだ。
にも関わらず、主要4キャラを同等に扱う演出をしているために矛盾が起こっている。
群集劇とするならば、アニメンデルのchさんの言うとおり
(http://d.hatena.ne.jp/ch3cook/20091004)
>バスの男の子の意味が分からなく
なるのだ。
あの子は完全に「サテン」のための段取りキャラであり、
しかも話の決着はそこで付く。
この先、長井龍雪がどのようにこの物語を料理するのか楽しみだが、
脚本との軋轢が解消されない限り、
見るのが難しいアニメになってしまうだろう。