ウテナの革命・少佐の公安と人形使い
「老人よ、時代は変わりました。
われらを支配してきた概念・上への志向性。
しかしそれは相対的なモノにすぎなかったのです
我らの向かうべきところ
絶対的であるそれは内」
ヴァンデミエールの翼 最終話より
(666さんのhttp://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20091204/1259946131
にインスパイアーされて)
エヴァンゲリオン以降、いや本当は「Vガンダム以降」というべきかもしれない。
80年代終わり、高度成長期はバブル崩壊と共に終焉を迎えた。
これによって高度成長期を支配してきた概念・「上への志向性」は
絶対でないことが周知の事実となる。
そこから先問題となるのは「内」と「外」という概念。
Vガンダムやセーラームーンあるいは出崎版おにいさまへなどで片鱗を見せ、
「エヴァンゲリオン」で本格化する。
上記ヴァンデミエールの翼も97年の作品
エヴァと社会状況をもろに受けた作品だろう。
エヴァンゲリオンは最終的に「内」に収束した(特にTV版は)
世の中の向上を目指すのではなく、
「閉じた世界でいかに内面的な幸福を得るか」
が重要であるという思想。
それに対して「外」に発散したのが「少女革命ウテナ」だった。
「少女革命ウテナ」も「鳳暁生=世界の果て」を表現することで
上への志向性=一般的意味での革命を否定している。
ウテナでの結論は「上」でも「内」でもなく「外」、
世界を革命するのではなく、閉じた世界で安寧するのでもなく、
「閉じた世界を出ていくのが革命」
というコペルニクス的転回を行った。
「エースをねらえ」は間違いなく「上への志向性」の物語だった。
angmarさん言う通りビルドゥングスロマン。
しかし、ウテナはそうではない。
ウテナには上への志向性はない。
だからウテナは「やっかい型持てる者」なのだ。
また「内」「外」の問題では攻殻機動隊も見逃せない。
押井版の少佐は外に向かっていた。
「ネットは広大よ」と言い残して、
彼女は閉じた世界を公安することを止めたのだから。
神山版の少佐の「内」と押井版少佐の「外」
この対比には注目する価値がある。
・この論点で「とある科学の超電磁砲」を見るとどうか。
サテンにはまだ漠然とした「上への志向性」がある。
あの漠然とした上への志向性というのは、非常に今らしい。
いや正確には「金融危機前の日本」らしい。
「実感のない好景気」が生み出した「漠然とした上への志向性」
サテンはそれを体現している。
でも彼女も気づく、「上への志向性」は絶対的なものではないと。
上をあきらめ「内」と「外」どちらかに向かうか、
相対的なものとなった「上への志向性」をなおも持ち続けるか。
学園都市という閉じた世界で内面の安寧を得るか、
それとも学園都市という閉じた世界から出て行くのか
努力を重ねるのか
そういう意味では御坂も黒子もそして初春も「内」を選んだ存在だ。
上条さんの能力はまさに「内」であることの能力。
そもそもパーソナルリアリティもシュレディンガーの猫も「内」的な発想だ。
本当は別に猫はいつまでも箱の中にいる必要はない。
シュレディンガーの猫は死にたくないなら箱から外に出るべきなんだ
この状況でサテンはどういう選択をするのか。
作品的には「内」を選ぶのだろう。
きっと原作では「内」を選んだのだろう。
だが、アニメはオリジナル要素も多いというし、
まだまだ分からないと、俺は思っている。
初春と一緒に旅に出るとかどうよ
「女はやっぱり海に出なきゃ駄目よ!」
とか言って。
で俺のジョンシルバーに「船には女を乗せない決まりになってるんだ」とか
言われて
もちろん監督は出崎統