才能と実力は似て非なるもの 〜 持てる者・持たざる者を越えて 〜


「草時は“閉じた人生”をおくっていた。自身が体験することに対してすら、常に傍観者であった。
彼は優秀な評論家であったかもしれないが、いつしかプレイヤーの本分を忘れ、評論家以外のスタンスを見失っていた。
森羅万象のすべてが、ガラスを一枚隔てた“向こう側”のことになってしまっていた。
体験により自分が変わる、という前提を、彼はついに持てなかったのだ。
それは、なまじ才能があると陥りやすい、楽な生き方である。
楽な、しかし、結果的にはあらゆる豊かさを損なう、危険な生き方である。


才能あふれる草時には、なにが足りなかったのか? 
才能と“実力”は、本当に似て非なるものだと思う。


才能とは、現実への可能性でしかない。だが実力は、現実そのもののことだ。


                「少女革命ウテナ脚本集・上 薔薇の花嫁」巻末収録  榎戸洋司


努力の物語を欺瞞と言うangmarさんや、
>最初から最強かつ無慈悲なやつが持たざる者を圧倒的火力で叩き潰す話が好き
という有馬さんに
同じことを感じた。
この話を思い出すまでに随分時間がかかってしまったが。


あるいは、この「閉じた人生」の究極が
宇宙をかける少女」の獅子堂秋葉と言えるかもしれない。
その対極に、「体験により自分が変わる」ことの象徴であるツツジがいる。


宇宙をかける少女の最終的な着地点はまさにここ。


電磁砲について言えば、
閉じた世界で「パーソナルリアリティ」とやらを手に入れると能力が手に入る
「とあるシリーズ」の世界観では、
多分サテンは救われない。


あれを「「個性化教育≒ゆとり教育」の痛烈なパロディ」といったのは
エピソードゼロさんだったか。


文科省によって実施された「ゆとり教育」の最大の欠点は
同じく「閉じて」しまっていることだと思う。
有馬朗人が想定していた手本はもっと・・・・・・