少女革命ウテナとスタードライバー16話


スタドラ16話とウテナを重ね合わせる語りを幾つか見た。
主にはマリノが幻であるということと「御影草時」との重ね合わせ、
あるいは、「タクトの敗北フラグ折り」と「ウテナの敗北」との重ね合わせ
というのもあった。


でも、ここは直感的に幹・梢兄妹とヨウ姉妹を重ね合わせていこうと思う。


と思って書いてたんだが、ウテナ26話に興奮しすぎて、
スタドラから離れたので仕切り直し。


とりあえずウテナの幾原監督の各話解説から引用

何かの本で読んだ。
野生動物の母子には”噛み別れ”という行為があるらしい。
授乳期を過ぎた子供を突然、噛み、攻撃し、自分の縄張りから追い払う。
本能が近親交配を避けようとし、それをするのだという。


ここでは”世界の果て”を現実社会のメタファーとしてみよう
(まるでテレビの実証番組のようだが)。
ある少女は、一晩だけの”世界の果て”との関係で、
新しいブランドバッグを得たという。
少女は言った。


まわりが汚れていたら自分も汚れるしかない。
自分も汚れて欲しいものを手に入れるしかない。

噛み合わないのはなぜ?
どうしてそこに留まるのか?
決して汚れない、その場所には”二人だけの永遠”が
あるのだろうか。


スタドラ16話もウテナ26話も決着をつけなかった。
噛み合わなかった。
幹・梢にしてもヨウ姉妹にしても
その関係性は変わらなかった。
「そこ」に留まったのだ。
なぜ汚れてまで、噛み合わずにそこに留まるのか。
世界の果てや綺羅星などといういかがわしいものに関わってまで。


しかも、スタドラにしてもウテナにしても、
「変化していく」物語である。
でも彼女たちはその依存関係から脱却出来ない。
「二人だけの永遠」にどっぷり漬かっている。

影絵少女A:かしらかしら、ご存知かしら?
影絵少女B:お客さん、そろそろ潮時じゃないかしら?
影絵少女A:ええい、こうなりゃ財布ごとだ。全部、黒。
影絵少女B:よろしいですね?.....おおっと残念、赤でしたね。
影絵少女A:うわああああっ!
影絵少女B:お客さん、ギャンブルはやったことないし、嫌いだっておっしゃってませんでしたか?
影絵少女A:試しに一回だけってすすめたのはあんただろ。....ちょっと待ってろ、今、貯金を全部おろしてくるから.....。
影絵少女B:カモだよな。

これはウテナ26話の影絵パート。
ギャンブル嫌いがギャンブルに沈む話だが、
直接的にはギャンブル=決闘である。
「決闘で薔薇の花嫁をやり取りするなんて間違ってる!」
とか綺麗事を言うミッキーだが、
コロリと騙されて、
ついつい決闘しちゃう。


でも、見方を変えて
ギャンブル=依存関係
とすればどうか。
ギャンブルは良くないと分かっている。
でもそうそう抜けられるものでもない。
幹にすれば初めてギャンブルに手を染めたのは
子供の頃、梢とピアノを弾いた時、
ミズノすればマリノを作った時


一度ギャンブルを知ってしまったら、そうそう抜けられるものではない。
ウテナ・スタドラは依存からの脱却を描く一方で
脱却出来ない様も同じく描く。


ただ、その依存がなぜ肯定されうるのか。
それについては、同じく幾原監督の15話の解説が面白い

フィクションの世界で、兄妹の関係にセクシャリティが表現されることが多いのは、
”血縁の関係は永遠だ”というイリュージョンがあるからだろう。
それは”永遠の恋人”の夢だ


(中略)


「彼(兄)の身体は私の一部で、私の身体は兄の一部」と彼女は言った。

兄妹の関係とセクシャリティはそのまま「俺妹」「ヨスガ」「お兄ちゃん」あたりにも
援用出来そうだが、そこはそれ。
「血縁」というものは過去のものだが、変えることはできない。
変えられないものをどうするか。


最後にもう一つ、榎戸洋司の言葉を引用しておく

過去への感傷に支配されながらも、それを自覚し、
やがてはそうした感情も道具として使いこなしていくよう成長する姿。
そしてそういう仕組みになっているこの世界の理。
僕はきっとそれを描きたいのだ。


脱却ではなく共存
依存・幻想との共存
幹・梢兄妹、そしてヨウ姉妹を通じて描かれたものは、
そう言ったものだったように思う。
ウテナやタクトのようになれなくても、
彼・彼女らのようにはなれるかもしれないな、と