アニメと感情と表現

なんとなく思うがままに書く。


割りと良く言っていることだけれども、
アニメというのは感情や感覚といったものを表現するのに非常に便利である。


なので、アニメにおいては理性・理屈や論理性というのは
感情の表現によって犠牲になってしまっても仕方がないと
思っている。
その意味においては、
感情の映像表現のインパクトは、物語の巧みさと同等以上の価値があると思うし、
アニメ特有のものであると思う。


つまり、多くの場合、
俺のアニメに対する関心は作画にしろ演出にしろ
「感情」と「表現」であり、
それがいかに表現するだけの価値のある真の感情であるか、
その感情を表しうる表現であるかというところが問題になってくる。


感情の話をすれば、
作り手がどれだけ感情を入れ込んでいるかが最終的には重要になってくる。
パヤオにしろ出崎監督にしろ富野監督にしろ庵野監督にしろ。
ウテナは幾原監督の想いの上にその他のスタッフの感情がガッツリ乗ってるところに
その魅力が凝縮されている点で、上記の「ワンマン」監督たちとは、毛色が違うかもしれない。


この感情の話は同化・異化、つまり感情移入出来るか出来ないかとはまた別である。
同化・異化は入れ込んだ感情の「表現方法」の問題であり、
「異化」を身上としている高畑勲監督の作品にも、
非常に多量の感情エネルギーが詰め込まれていることは、
作品を見ればわかるだろう。


逆に言えば、そもそもの感情エネルギーがなければ
巧みな主観演出も客観演出もパワー不足となる。
近年の細田守作品や笹木・村田両氏の電脳コイルのコンテなど
(最近で言えば笹木氏のまどマギのコンテも同様)
どんなに巧みな演出だろうと、やはりパワー不足だなと、
感じてしまう。


感情と表現
エネルギーと発露
その両輪がそろうアニメを見るために
アニメを見ているんだなぁ