「何をやるか⇔どうやるか」と「マッチング⇔ギャップ」


例えば、イノセンスだ。
イノセンスの「絵が気持ち悪い」という意見があったとする。
リアルさが気持ち悪いレベルまで来てしまっている、と。


しかし、その一方でイノセンスという作品と「気持ち悪いほどリアルな絵」はマッチングしている。
義体」という設定的な面でもそうだし、押井監督のテーマである「虚構と現実」にも合っている。
つまり、イノセンスの「絵」は「どうやるか」という点においては、
まったくもって理に適ったものなのだ。


これは同じことが今敏監督作品にも言える。
作品のやりたいことと、その表現方法がマッチングしている。
もし「気持ち悪い絵」を問題があるとするならば、
一つとしては、それは絵自体に問題があるというよりも、
「作品」がやろうとしていること自体に問題があるということになる。


そんな気持ち悪い絵を要求するような作品を作るな、と。


でも、それは言っても仕方のないことのような気もする。
一人のクリエーターが「これを作りたい!」と思った時に
それに理由なんてないわけで、あとは現実との兼ね合い。
だからこの論点は言ってもしょうがない。
「売り上げ」だの「アニメの未来」だのは、そりゃあ重要かもしれないが、
「これを作りたい!」という熱意が勝れば仕様のないこと。


むしろ、重要なのはもう一つの論点。
つまり「マッチングしてればそれいいのか?」ということ。


古い例と新しい例をそれぞれ。


逆シャア友の会で話題になっていた、
富野監督の相方には安彦さんと湖川さんどっちがふさわしいか、という話。
庵野さんは、
「富野さんの表現に合っているのは湖川さん。でも合いすぎてる。
だから富野さんに反発する安彦さんの方が面白い」
というようなことを言っている。
マッチングするよりも、むしろギャップがあったほうが面白い、という考え方。


あるいは、新房監督の「ef」から「まどか・マギカ」への流れ。
新房さんも元は「支配者系アニメ監督」
作品全体をマッチングしたいし、右腕だった故・鉄羅さんはそれを実現させることの出来るアニメーターだった。
しかし時は流れ、シャフトの新房さんになり、
「作品と絵がマッチングしなくても良い」という思想を理解する。


まどかマギカ」は、絵をもっとリアル方向に寄せれば、
「女版イデオン」みたいな赴きになったかもしれない。
でも、そうはしなかったところに、あのアニメの成功がある。


まどマギ」「イデオン」にさらに「人狼」を混ぜてみる。
この3つは根本の部分は大して変わらないように思う。
ただし、やり方が違う。


人狼は絵と作品はマッチングしていた。
あの作品をやるのにあの表現方法よりもマッチしたものはちょっとわからない。
むしろ人狼におけるギャップは唯一、沖浦監督のやりたいことと人狼が合っていないということだった。
思想としては、「宮崎駿に、富野原作のイデオンを作らせる」ようなものなわけで、
そりゃマッチしない。


しかし、沖浦監督が難しいのは、彼の絵と彼のやりたいこと自体にギャップがある、ということだ。
集団作業から生まれるギャップではなく、一人の人間がもっているギャップ。


俺が他の押井作品よりも人狼が好きなところは
もちろん、あの硬質な絵と悲劇的な物語のマッチングもあるが
それに抵抗しようとする沖浦監督という要素が大きいのだ。


そういう意味では、「ももへの手紙」の
「スーパーアニメーターの苺ましまろ」あるいは「目が死んでるかみちゅ」というのは完全には批判ではない。
いわば「逆まどかマギカ」。
ただ、逆なだけ。
「話は『ひだまりスケッチ』、絵は『人狼』」みたいな。
虚淵原作、キャラデ作監沖浦」がマッチング的には一番だよなぁ、ってね。


で、そこからは個人の好みのお話になっちゃう。
俺は割りと「シリアスにはギャップがほしい、コメディにはマッチングがほしい、ギャグはなんでもあり」
っていう好みをしている。
これは本当に人それぞれ。
「とにかくマッチングだ!」という人も居れば
「ギャップの面白さこそ至高!」という人も居る。
視点を変えると、
梅図かずおさんや、大地監督の師匠のやすみ監督のいうように
「ギャグが出来ればシリアスは出来る。逆はそうとも言い切れない」
っていうのもある。


まあ、自分の好みを分析にするときの足しにでもしてみてください。