「愛は平和ではない 愛は戦いである
武器のかわりが誠実(まこと)であるだけで
それは地上における もっともはげしい きびしい
みずからをすててかからねばならない戦いである――
わが子よ この事を覚えておきなさい」
(ネール元インド首相の娘への手紙)


名作「愛と誠」で有名なネルーさんの手紙で始まりましたが、
666さんの
(マルチエンディングとアニメ ましろ色・恋チョコに至るまでの試行錯誤の歴史)
http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20120902

の記事にインスパイアされたので、書いてみる。


さて、彼のこの記事を読む、その前提となる記事がある。
これだ
(草食系男子(仮)とキャロル神話系男子)
http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20090320


これ、もう三年も前のことになるのか。


この記事はマルチエンドの記事を別の観点から見たものである。


つまり、展開や物語としてハーレムアニメを捉えるか
あるいは主人公の属性で捉えるか。


彼は彼が呼ぶ「串団子型アニメ」の問題点として

毎話違う女を取っ替え引っ替えしながら,薄っぺらい行動を繰り返すことによって
「いくらなんでも不道徳すぎんだろ」という印象を拭えない点に問題があった.

と指摘している。


これを「主人公の属性」という観点から捉えなおすとどうなるか。


串団子型アニメの典型にKANONがあがっているのを観ればわかるとおり、
このタイプのアニメあるいはゲームの主人公の典型は
「キャロル神話系男子」
なのだ。


「まともな女性とは怖くて付き合えないから,自分より弱い者を愛す男」
虚言症,記憶障害者,自殺志願者に吃音,ヒキコモリ,盲目,唖障害,かんしゃく持ちの登校拒否児などなどの女の子たちを次々とオトしていく鬼畜


彼らは物語構成によって「鬼畜・不道徳に仕立て上げられた」ともいえる一方で
彼らこそが「正真正銘の鬼畜」ともいえる。
ハーレムとは鬼畜の物語。



だが、キャロル神話系鬼畜主人公も終焉を迎える。


その次に現れたのは「主人公の分割」によって「鬼畜さが薄められた普通の男」や
キャロル神話とはまったく逆の
「どんな女性とも付き合える、自分より強いものも弱いものも分け隔てなく愛す男」
解脱する主人公
が登場する。


彼らはキャロル神話系ほど弱くもなく鬼畜でもない。
その意味で彼らは主人公であって、物語の主人公としての役割は薄くなる。
その分、ヒロインの重要性が高まる。


その結果どうなったか。


ヒロインたちはキャロル神話系鬼畜が愛す「弱い女」「待つ女」ではなくなった。
そう朧月夜よろしく、「来る女」へとなった。


さて、ここで二つほど考え方を足してみよう。


○女性の変化(へんげ)について
キャロル神話系男子の記事にインスパイアされて書いた過去の記事がある。
(出崎版渚に見る出崎の女性観とスタンス)
http://d.hatena.ne.jp/mattune/20090323


簡単に要約すれば
「キャロル神話系男子の餌食となる女の子たちは、本当は弱いわけではないかもしれない
弱い女の子を求める男のために弱い女の子を演じているだけ


という解釈。
この解釈を逆手にとれば、
「最近の主人公が求めているの『待つ女』ではなく『自分から動く女』『来る女』」
なのかもしれない。
それは、同時に視聴者の求めているものかもしれない。
ハーレムアニメの視聴者は「弱い女」から「強い女」を求めるようになったのか・・・


○戦闘美少女
さてキャロル神話系の記事のはてブをのぞいてみるとこれがまた興味深い
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/n_euler666/20090320/1237565781
mae-9さんが戦闘美少女のwikipeのリンクを張っている。


そう、エロゲに比べてアニメの方が戦闘美少女の歴史は長い。
keyが
虚言症,記憶障害者,自殺志願者に吃音,ヒキコモリ,盲目,唖障害,かんしゃく持ちの登校拒否児などなど
の強力な「弱い女」を用意したように、
「強い女」にもwikipeの通り斉藤氏の提唱する
紅一点系、魔法少女系、変身少女系、チーム系、スポ根系、宝塚歌劇団系、服装倒錯系、ハンター系、同居系、ピグマリオン系、巫女系、異世界系、混合系の13種のサブタイプ
が存在する。


最近の主人公の求める「強い女」の品揃えについてアニメ側に抜かりはな、というわけだ。


○ハーレムは戦いである。
ハーレムはヒロインたちの戦いである。
それは「弱い」「強い」は関係ない。
それさえも、変化(へんげ)や演技でさえも、戦いの道具なのだから。


そうネルーは、そして梶原一騎にとっては「武器のかわりが誠実(まこと)」だったかもしれない。
だが、
この2010年代に繰り広げられている戦いの武器は本当に誠実なのだろうか?
欺瞞なのか?
それとも、その欺瞞に見えるものこそが誠実で、やっぱり何も変わってないのか?


「もっともはげしい きびしいみずからをすててかからねばならない戦い」
は今もなお続いている。