自由とは〜中二病とゲーテとハーレムアニメ


雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。
それが自由というものだ。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ


アニメ的にはビッグオーで引用されたことで有名なこの言葉。
中二病のラストはこれで全て表現できる。


「普通であるべし」という同調圧力を乗り越えて、
雨の中で傘をささずに踊る。
その行為というのは確かに、中2病的かもしれない。


逆に言えば、中二病というのは自由を体現していることに他ならない。


その意味で言えば、くみん先輩が二代目になったのも当然で、
彼女こそが、このアニメの中でもっとも自由であった。
いかなる場所においても眠り続ける彼女は、
一種の狂人であるが、そうであるがゆえに自由だ。


何者にも妨げられない。
現代風にいうところの「消極的自由」
ゲーテは18世紀の人間なので、この18世紀以前の古典的な自由、
個人主義的な自由こそがこの言葉をあらわしている。
そして、このアニメはそういうものを貫いた。


反対に勇太や十花が六花を矯正しようとしたのは「積極的自由」の発露であった
といえるだろう。
「自由とは自律であり、自律を強制することは自由として必要な行為である」
いわば全体主義的な自由。
中二病に逃避することなく、現実を見、自分を律せよというわけである。


時事的なことで言えば、これはイデオロギー的な対立の話でもあって、
「革新の代替語としてのリベラル」と「ネオリベ」との対立でもある。


そういう意味では、今期のトラブルダークネスと中二病の比較は面白く、
トラブルダークネスはまさに「積極的自由」の物語である。
現代のハーレムアニメとは登場人物の自律によって、
その危うい世界を維持しているのだ。


だから中二病はハーレムアニメにはならなかった。
そのことを4話でモリサマーの正体が明かされたことで表現しており、
彼女が3話までのように「自律」を続けれていれば、
ハーレムアニメになる道もあったかもしれない。


もっとも「個人的自由」の象徴たるくみん先輩の牙城がある限り、そこは難しいかもしれないが。


なので、ラストの勇太と六花がこの先駆け落ちして、
六花が踏み切り事故で死んで、精霊会議、というところまで
やってくれたら、良かったのになぁ、
と思いつつも、
まあ石原監督だし、花田先生の脳内にだけあれば、それで十分。