ラブライブ12話〜自己愛イリュージョンセオリー


前回の記事のコメント、そして以前の記事でも書いたが、
花田十輝の真髄は「幻想性」の表現、特に「愛の幻想性」だ。


それは中2病もソラカケも精霊会議solaもそうだった。


そして、ラブライブ12話の穂乃果にも「愛の幻想性」を見出すことが出来る。


それは、愛は愛でも他者への愛ではなく、自分への愛
「自己愛の幻想性」だ。


そもそも穂乃果の魅力とは何だったのか。
それは「意志力」だ。


1話の海未とことりを見てみよう

海未「やっぱり、うまくいくなんて思えません」
ことり「でも、いつもこういう事って穂乃果ちゃんが言い出してたよね」


回想穂乃果「登ってみようよ!」
回想海未「無理です、こんな大きな木!」


ことり「私たちが尻込みしちゃうところをいつも引っ張ってくれて」
海未「そのせいでさんざんな目に何度も合ったじゃないですか」
ことり「そうだったね」
海未「穂乃果はいつも強引すぎます」
ことり「でも海未ちゃん、後悔したことある?


穂乃果は無理なものでも可能にしようとする意志力があった。
その意志力はどこからくるのか。
それは穂乃果の持つ自信だ。


「うまくいく、やってやる」という自信が穂乃果にはある。
自分のアイデアを「最高のアイデア」と言い切る穂乃果だからこそ、
強い意志力をもって、
誰に否定されても頑張り続ける。


そして、その自信の根底には「自己愛」がある。
自分のアイデアを最高のアイデアと言い切り、
自分が見出した才能に絶対の自信を持ち、
自分の考えた振り付けが絶対良いという。


自分のいる学校を守りたい。
三人でやってきて良かったと思いたい。


「やって良かったと本気で思えた」それが3話の初めてのライブの後の
穂乃果が語る原動力。


では、もしその自己愛が幻想だとしたらどうなるか?
自己愛に起因する穂乃果の意志力もまた幻想ということになる。


彼女はミューズに自分自身を重ね合わせることで、
その自己愛・自信を高めていった。
そして、それが意志力に繋がり成功へ導き、
その成功がまた自己愛・自信を高めるというループで
ここまで自己愛を高めてきた。


しかし、高まりすぎた自己愛は危険でもある。
11話の穂乃果はその高すぎる自己愛・自信に振り回されていた。
周りを、メンバー、ことりちゃんを寄せ付けなかった。


そして、その自己愛が泡のように弾ける。


ライブは倒れて中止。
ラブライブの出場は断念。
ことりとの別れ。
そして、舞い上がったいた自分への後悔。


実体かと思われた自己愛は幻想でありバブルだった。
その肥大が大きければ大きいほど、
弾けたときの反動も大きい。


彼女には、肥大した自己愛に振り回された時代の不良債権が残った。


こう考えると12話の展開は非常に理に適っているといえる。
私たちは11話かけて、穂乃果の自己愛の肥大化を見てきた。
彼女の自信に対して、根拠のなさを感じながらも、
その自己愛と自信と意志力に酔いしれてきた。


でも根拠のない自己愛・自信、それは幻想なのだ。
自己愛というもの、それ自体が実体のない幻想と言えさえする。
イリュージョンなのだ。


そして、人間はその自己愛という実体のない幻想を上下させながら、その上で生きている。


花田十輝は人間というものをそう捉えているように感じる。
その人間観はいわば自己愛幻想理論ともいえるであろう。
なんとも中2病的な響きが彼には似合う。


もちろん、それはキャラクターだけではない。
視聴者である我々も一緒。
炎上マーケティングのための展開」
「二期に繋げるための方便」
そんな生易しいものではない。


「穂乃果の魅力が幻想だとわかって、それまで穂乃果を好きだった視聴者自身を疑わせる」
そこまで踏み込んでいる。
穂乃果やラブライブというアニメに対する愛情も、
それらを愛するという自分自身の気持ちさえも、
幻想だと断じているのだ。


それが、彼の自己愛イリュージョンセオリーの実証でもあるのだ。