藤津亮太さんの『逆シャア』講座に言ってきました。その1


逆シャアなら行かねばなるまい、ということで行ってきました。


藤津さんは私とは違って、「作品そのもの」を最重要視した見方をするので、
それが私にとっては新しい発見というか、私の「作り手と作品の関係性」を重視した見方からは
出てこない考え方が多くて面白いです。


さて、まあその新しい発見は後で何か書くとして、
藤津亮太さんが「これはいまだに謎なんです」と言っていた
「なぜサイコフレームの光はチェーンの死から始まるのか」という部分について、
ちょっと考えてみる。


私としてはあれは「生贄」かな、と思っています。
サイコフレームの光というのは、人類の革新の光であって、
そのためには生贄が必要なのです。
花が実を結ぶために散るように、何かを成し遂げるには犠牲は必要です。


シャアというのは、それがわかっていて、
世紀の大虐殺者になろうとも人類の革新のために色々な犠牲を出しているわけです。


それに対してアムロは、「やさしさをニュータイプの能力だと勘違いした男」なので、
そういう犠牲は出したくありません。
犠牲を出さずに人類を革新したい。
でも、やっぱり世の中はそんなに甘くない。
アムロのあの時点のパートナーである人間の生贄をもって、
人類革新の光、サイコフレームが輝きだす。


これはアムロにも皮肉であり、シャアにとっても皮肉である。
シャアは確かに多くの人間を隕石落としで生贄にした。
でも、その多くの人間はシャアにとってどうでも良い人間だ。
そんな人間を幾ら生贄にしても何も起こらない。
大事な人間の犠牲が必要なのだ。


とそんなことを考えていました。
でも、それにしてもチェーンの死はしょーもなさすぎます。
生贄の儀式であれば、もうちょっとちゃんとするでしょう、と
私も心のどこかで思っています。

でも、それとは違う考え方も、藤津さんの『英雄神話のモチーフ』の話から思い浮かび。
それは平川哲生さんの

なんで神話は物語に矛盾や混乱をふくませるんだ、すっきり整理整頓すればいいじゃん、
と疑問を持つ方もいらっしゃるでしょう。
でも神話には矛盾や混乱が必要なんです。
なぜなら神話の矛盾や混乱は、
むかしの人々がこの世界の矛盾や混乱をそのまま丸ごと理解するための工夫だったからです。
現代の哲学はこの世界をばらばらに分解して、すっきり整理整頓して理解するものですが、
むかしの哲学(神話)は分解せずにいっしょくたに飲み込むものでした。
とうぜんエンターテインメントじゃないけれど、
でもだからこそ時代を超えるほどの力強さが神話に生まれます。


つまり、チェーンのしょーもない三角関係のもつれによる死から、人類革新の光が始まるというのも、
人々がこの現実世界の矛盾や混乱をそのまま丸ごと理解するために工夫なのではないか、ということです。
年少のころから逆シャアを見ていた私にはこの考え方は割としっくり来る。
むしろ、思考が原始的であった年少の頃を見たことで、
逆シャアが私の魂のアニメになったのかもしれない。
年をとってから見ていたら、もっと理路整然としたものを求めていたかもしれない。
逆シャアは神話だ。


俺にとって逆シャアは神話、わかるか、北久保?(敬礼シーンを担当した北久保弘之さんは関係ない)