ステラ女学院についてのメモ〜石原慎太郎と川尻将由〜


ステラ女学院の監督のインタビューを発見
http://anifav.com/special/20131104_2282.html


なかなか面白い内容で、
同時に、彼の自主制作アニメ「ニッポニテスの夏」も思い出した

[作者より]

最初は「河童のクゥと夏休み」や「鉄塔 武蔵野線」みたいなジュブナイル作品を作ろうとしていました。

しかし、話を考えるために僕の子供時代の記憶を辿っていくと、その頃感じていたストレスがまざまざと蘇り、
「殺してやる!殺してやる!」と独り言を呟きながら絵コンテを描いていると、
結果的にこんな作品が、出来上がってしまいました。

この作品を見て不愉快に感じる方もいると思いますが、それは作った僕のせいじゃなくて、
地域や学校社会にひそむ理不尽な暴力、または子供時代に誰もが持っている、
己の視野の狭さ!のせいなのです。

http://doga.jp/contest/con21/html/21_48.htm


そして、ステラ放映中にこれを見て脳裏によぎったことがあった。
それも一緒に思い出したので、書いておくことにする。


脳裏によぎったのは「嫌悪の狙撃者」だった。


2010年12月ごろ、ちょうど次の都知事選が視野に入りだした頃だろうか、
二つの記事を見かけた。


石原慎太郎の目指すもの「嫌悪の狙撃者」
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20101213


石原都知事の作品『嫌悪の狙撃者』がダークフォースすぎる件
http://blog.chakuriki.net/archives/51111446.html



石原慎太郎の小説「嫌悪の狙撃者」。
嫌悪の狙撃者は

かぎりなくノンフィクションに近い話であって、昭和40年の少年ライフル魔事件について書かれた作品である。
神奈川県座間市の山のなかで、十八歳のガンマニア少年が、三人の警官をおびき寄せ、狙い撃ちにして死傷。
そこからカージャックなどをして渋谷に逃れ、銃砲店を襲って立てこもり、
数千人もの渋谷の群集や数百人の警官隊に向けて無差別に発砲したウルトラバイオレンスな事件である。

http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20101213


という話。
この話自体が、「ニッポニテスの夏」に非常に近い、というのが、
まず、私の脳みそに引っ掛かったのだろう。


この小説で表現したかったことは何なのか

「嫌悪」こそが今日の人間が生きるための情念である。
「嫌悪」だけが、自らを正しく見出し、己の生を生きるための情熱を与え得る唯一の術だ。
「嫌悪」の遂行こそが現代における真の行為なのだ。それが遂行される時にのみ、真実の破壊があり、
革命があり、創造があり得る。「嫌悪」に発する、精神的に凶悪な思考だけが真に知的なものであり得る、
等々、私は私なりにその主題を発展させていったのだが。

http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20101213

この作品は、「嫌われ者」であり続けようとする石原氏の原点というか覚悟のようなものが伝わってくる。
人が望む「人からよく思われたい」「人と仲良くしたい」という願望は、行動を制限したり、
冷徹な現実を見ない結果にもつながる。
なので逆に、周囲をすべて敵とみなし、憎悪する、という状態に自らを置く事は、自由な思考と行動につながる。

http://blog.chakuriki.net/archives/51111446.html


こういう人が元都知事で現職の衆議院議員だというのだから、
唖然するしかないが、小説家としてはこのくらいの狂気があった方が私の好み。


そして、川尻将由監督にもこの「嫌悪への意志」みたいなものを感じるのだ。


ニッポニテスの夏はもちろんのこと
「ステラ女学院」においても、「嫌悪」というものがベースのあるように見える。


ステラ女学院のゆらの『「人からよく思われたい」「人と仲良くしたい」という願望』は
彼女を良い方向には導かなかった。
彼女が「人から良く思われたい」と願い行動すればすれほど、
空回りしてしまう。


そして、彼女をむしろサバゲーのプレイヤーとして成長させているのは、
「嫌悪」のようなもののように感じる。
7話からの24時間大会へ向けての司令官としての知識・行動力は、
嫌われてもいいから、優勝する」という意志から生まれたものだった。


また、11話の解釈には、色々とあると思うが、
一つしては、あのゆらの立ち直りというのは、
そういった「人から良く思われたい」「人と仲良くしたい」という願望を
一回捨てることを意味していたように思う。


「ステラ女学院」という作品が非常にネガティブだとされ、
川尻監督自身も「ポジティブではないもの」という、
そのベースには、
一般的な「愛好」はない。


だから、見ている者に
「そのらがゆらとちゃんと話あっていれば」
「凛がゆらを導いてあげれば」
「誰かが、ゆらのがんばりを認めてあげれば」
と思わせる。
この作品では、「人から良く思われたい」という努力はまったく報われない。
そして、それが、ゆら・そのら・凛への「嫌悪感」へとつながる。


川尻監督のインタビューでも気になるのは

最初にあったのが、僕のほうでは、ゆらはもともとが本人が充実してればいいので、
C3部に戻らなくてもいいんじゃないかな、みたいな気持ちでいたんですよ。

C3部でも、明星女学園でもいいんですが、「この子たちには、ゆらがいないとダメなんだ」というのが、
もうちょっと分かりやすく描けたらよかったですね。


の部分。
こう見ていった時に、
やっぱり前者が本音なんじゃないかな、と思ってしまう。
12話のゆらはもう「人からよく思われたい」という願望捨てていて、
それで充実しているのだから、C3部に戻る必要はない。
また、C3部のメンバーが「ゆらにいてほしい」と思う必要もないのだ。




「周囲をすべて敵とみなし、憎悪する、という状態に自らを置く事」が必要とまで言えるかどうか、
というのはちょっと私にも分からない。
それはそれで大変な精神力が必要そうだし。


でも、その一方で
「人からよく思われたい」「人と仲良くしたい」という願望
あるいは「人をよく思いたい」という願望に
縛られる必要もない、とも思う。
そういった願望は捨てて初めて叶うものなのかもしれない。


12話のラスト、やはりゆらは一人だ
そんなにC3部の面々と距離が縮まった感じもしない。
即部室に顔を出すこともしないし、
C3部メンバーでは相変わらず、ゆらを気にかけているのはれんとだけだ。


でも、ゆらは各種の願望から開放されたことで、
初めて、自分から声を掛けることが出来るようになった。


1話の冒頭、「高校デビューして友達を作ろう」と思うゆらは、声を掛けられても反応できない。
でも、その1話のリフレインである12話ラストでは、
ゆらから声を掛けた。
それは、ゆらが別に同級生と「友達になりたい」から声を掛けたのではないから、
に違いないと、私には思えてならなかった。