アニメ演出について語りたくなるのはなぜか

ついに山本寛アニメージュの「この人に話を聞きたい」に登場したわけだが、うーん


小黒さん(以下アニメ様)がつっこんだところだけに焦点を絞ると


(以下引用)
山本:原作を反映させて、なおかつ、できるだけ多くの方が受け入れられる作りをしたつもりなんです。
ここでも、やっぱり『俺が、俺が』というのはないですね。『らき☆すた』という作品があって、
それをいかにしてアニメに移植するか。それにつきますね。『かんなぎ』もそうですけど、そこに自分と言うものは入ってこない。入る余地がないんです。そもそも。


――それでいいんですか?


山本:いいと思ってますね。特に原作つきの作品は。


――それは山本さんが単なる演出家だったら『そういうスタンスもありですよね』と言うところなんだけど、
山本さんご自身が『アニメはもっと批評されるべきだ』とおっしゃってるじゃないですか
そうやって作ったものが、批評の対象になり得るんですか。


山本:いやむしろなり得ないとおかしいと思います。例えば、演出、カットの割り方であるとか、画面の作り方であるとか、
そういうところを細かく論じるべきじゃないかと思います。自分を主張する監督でなくても、作家を論じられると思うんです。
演出論に限って言うならば『ハルヒ』、『らき☆すた』、『かんなぎ』と色々スタイルは変えていても、
そこに一貫している僕の演出論というのはあって、僕自身は勿論それを語れるわけですよ。
まあ、例えばフィックス主義であるとか、そういう語れる部分はどの作品にもある。
過度の主張をしている演出家じゃなくても、作家論として語る事ができるんじゃないかと思っています。


(引用ここまで)


この議論にはそもそも重大なズレがあって、
アニメ様の言う「批評の対象になる」というのは「視聴者が批評をしたくなる」って意味なのに対して
ヤマカンは、(多分わざと)「批評可能」という意味でとってしまっている。


確かにヤマカンの言うように、原作の再現度を重視した作品でも批評は可能である
例えば、西沢信孝というアニメ演出家がいる
佐藤順一なんかも西沢の原作に合わせた演出を目指していると発言している
東映アニメーションの重鎮。
マジンガーZ対暗黒大将軍」「TV版銀河鉄道999」「パタリロ」「スラムダンク」「勝負師伝説 哲也」
などなど
確かに西沢監督は偉大な演出家である。


でも、じゃあオタクが西沢監督の演出を批評したくなるか?、といえば答えは限りなくNOである
「アニメ批評が低調なのは視聴者のレベルが低いから」
とか言ってたバカとか、ヤマカンから西沢監督についての批評などついぞ聞いたことがない


西沢と比べて、同じ「銀河鉄道999」でも自分の色を出しまくった
りんたろう監督はどうだろうか
彼の「劇場版銀河鉄道999」は事あるごとにディープなオタクから
演出を語られている。(試しに「銀河鉄道999 カット割」とかでググってみよう)


ただ、哲也にしろスラダンにしろダイの大冒険にしろ、
作品として好きな人は結構いるはずである。
スラダンのアニメは否定的に言われる事も多いが、
かなり原作の雰囲気をそのまま落とし込んでいると思う(俺はアニメ→漫画の順番だった)


つまり「原作重視」の作品というのは、畑違いのファン(漫画好き、バスケ好き、麻雀好き)を
軽いアニメファンにする事は出来るかもしれないが、
ヤマカンの言う「演出批評」をするようなアニオタを生む確率は少ない


その証拠にヤマカンが最近批評してる原作モノアニメは
true tears(タイトルのみを借りた、ほぼオリジナル)
喰霊(原作とは全然違う)
・ラインバレル(上と同じ)


涼宮ハルヒ」だってEDで躍らせたから、「これを作った奴は誰だ!」となったわけである
あれで「作画」というものの仕組みに興味を持った人も多いだろうし
(言うまでも無いが、あのEDはまったくもって原作通りではない。ヤマカンはなんか適当に言い訳してたけど)


ヤマカンの演出スタイルがどうだろうが知った事ではないが、
「批評がしたい!」と思わせるようなアニメを作らない限り
アニメ批評は低調なままでしょうね