不可視境界線と死とモリ


不可視境界線=「現実と虚構(幻想)の境界」とかいう説をちらほら見るが、
これは正確ではないと思う。


もうこの境界はそのまま「生と死の境界」だろうと。


例えば、6話とかの踏み切り=境界という考え方。
これは出崎信者的に考えても基本中の基本の演出。
それはいい。
考えなければいけないのは、
それが何の境界か、ということなのだ。


そこでこう考える
「その踏み切りを超えたらどうなるのか」
答えは簡単だ
電車に轢かれて死ぬ。
そう向こう側は死の世界なのだ。
生と死の境目が踏み切りであり不可視境界線なのだ。


その分かりやすい解答として、六花の父親の「死」という話が
7話から出てくるというわけ。


そして最新の9話を見れば分かるだろう。
屋根・そしてつり橋効果。


屋根の淵はまさに生と死を分ける「不可視境界線」だ。
そこに「まるで吸い込まれるように落ちる六花」はまさに

死の世界に引きずり込まれるかのようであった。
それを「生の世界」側に引き戻した、
そういう演出になっている。


そして、つり橋効果とはまさに「死」と対峙することへの
緊張感と「恋」との類似性を示したものである。
つまり、つり橋効果的に考えれば
恋≒死
なのだ。
代入すれば、
中二病でも死にたい」
となる


思い直してみれば、脱中二病の二人は何回も「死にたい」という言葉を連呼していた。
そう、彼らは、そして花田十輝は「冗談交じりに」早くから死というものを
視聴者の無意識に刻みこんでいたのだ。
凸守の語尾の「です」は「DEATH」に脳内変換すると読みやすいという主張
(参考:http://haruhiism.blogism.jp/archives/52310364.html
も、同じギミックだろう。
(先行事例として「黒執事」があることも面白い。
ハミュッツ勢ならば、即ち「篠原監督・岡田構成・花田脚本」の「戦う司書」に繋がろう。)


さらに言葉遊びをもう一つ。


アニメオリジナルらしい凸守と、その因縁のモリサマー。
共通項は「モリ」。
そう中二病的知識としては
ラテン語で「mori」は「死」を意味する単語というのは
周知でしょう。
メメント・モリ」のおかげでね。
最近でいうと「ガンダム00」とか「ラインバレル」とか「エウレカセブン」とか
まあ、凸守みたいな「中世ヨーロッパ系中二病患者」には
一種の必修単語みたいなものでしょう。


メメントは記憶を、モリは死を意味し、
直訳なら「死を記憶せよ」「死を忘れるな」となる。
実際的な裏の意味は
「明日には死ぬかもれないから、今を全力で楽しめ」
ということである。


まさに死と恋そして青春を結びつける言葉。


なんてね。