ラブライブ9話と都市論


ラブライブ9話を見て、驚いたのは都市論を持ち出してきたことだ。


ラブライブ9話を見て
「小説JUNE」の幾原邦彦さんと竹宮恵子さんの対談があって
その中で、都市論が話題になっているのを思い出した。

幾原: 僕が先生のマンガで好きなのは、街の話を描いているところ。
   都市論みたいなのがでてくるのがすごく好きなんです
   「天馬」は、都から追われた男の人
   と女の人の話でしょう。そういうところとか、あとイスマイルが都の快楽に体を毒される
   じゃないですか。「俺のことかな?」って(笑)。僕ももっとチヤホヤして欲しいとか、
   雑誌に出たいとか(一同爆笑)。
    草原の民だというのを彼自身忘れかけてる。「風と木の詩」も最後、
   街で話の決着がつくじゃないですか。セルジュの両親なんかも街を追われた人だし。
   “街” と、“もう一人の自分”の話はすごく惹かれますね。もう一人の自分、
   半身の話を描く少女マンガ家は多いんですけど、都市を描く人がいないんですよね。
   都市論がなく、親兄弟や隣人などだけで語られる半身の物語って、やっぱり脆弱だと
   思うんですよ。だから、同時に都市論を描く先生のマンガは、必ずその時代を
   あぶり出してるように見えるんですね。
   そこが、その他の半身の物語と一線を画しているところだと思います。

竹宮: 私にとっては、生活感がないものはつまらないというのが基礎的な部分なんです。
   人間も、まあ、ひとつの細胞だと思ってて、それが死というものを司っているのかって
   捉え方なので、“都市全体が身体なんだ”っていうのがないと世界が描けない気がする。
   住んでる街によって、近代的になっていく人もいるし、田舎臭くなっていく人もいるし、
   環境がすごく作用するもんだから、描かなきゃしょうがないんですけど、
   私にしてみれば。


最近、いわゆる「聖地」を意識したアニメが多くある。
でも、それが都市論として作品の中で昇華されているかと言えば甚だ疑問だった。

今期で言えば「たまこマーケット」に多少、都市論的な部分を期待していたが
たまこマーケットはそれがメインにはならなかった。
たまこは商店街に愛されてはいるが、
「商店街で育ったからたまこは●●だ!」という部分があまり感じられなかった。


その中で、ラブライブが都市論みたいなものをやったのには非常に驚いた。
秋葉原という都市にスポットライトを当て、その都市としての意味を考える話をやった。


しかし、よく考えてみれば意外なことではないのかもしれない。
ほのかだって「たまこ」と同じく和菓子屋の娘なのだ。
秋葉原と神保町と神田の狭間にある学校が舞台なのだ。


「さっき町を歩いていて思ったの。次々新しいものを取り入れて、
毎日目まぐるしく変わっていく。この街はどんなものでも受け入れてくれる」

ミクロに見れば、この回のことりのメイド喫茶の話であり、
新たに出来たというスクールアイドルのショップの話である。
「歴史のある音乃木坂学園の廃校」というのも
いわばこの街の性質の結果である。


しかし、マクロに見れば、上の秋葉原を表現している言葉は
まさにそのままこのラブライブというアニメそのものを表現しているともいえる。
「次々と新しいものを取り入れて、毎日目まぐるしく変わっていく」
脚本しかり演出しかりキャラクターしかり、
どんどんとハイスピードで新しいものを目まぐるしく魅せてくれる。
これこそが、ラブライブというアニメの本質。


そう考えた時に色々とこの物語の解釈が広がって。
そうか、UTX学園がスクールアイドルの強豪なのは、
秋葉原をお膝元としているからなのか、とか
前回のスマホや、その前のノートパソコンの普及も
それを感じさせる、とか。
3DCGとの相性が良いとか。(かつての電気街・秋葉原の印象を覚えている人間として)


前にn_euler666さんが
「才能を持ったやつがいない。というのは、ラブライブの特徴かもしれん。みんな、負けてくすぶってたやつらばかり。」
と言っていて、
karimiさんも「ラブライブの連中には才能を感じさせるような描写がない」
と言っていた。
彼女らは世間一般でいう生まれ持った才能はないのかもしれない。
しかし、秋葉原の近くで育ってきた、という「環境」がある。
秋葉原という環境が、彼女たちの「実力」を担保しているのだ。


ある人材開発のプロの人からこういう話を聞いた。
『人は才能が全てではない。
「環境」と「意志」が人の成長を決める』


秋葉原という環境。
では意志は?
それはまた今度にしよう。