ステラ女学院10話 凛の正体と判断〜大佐と大尉と少佐の狭間〜

ステラ10話を見たときに、強く感じたのが
凛はネオジオンのシャアほどはクズではなかった
ということだった。



彼女にはまだ迷いがあるのか、
暴走しているゆらを良い様に使ってマシーンにしてしまおうとまでは思っていない。
その点でいえば、シャアとクエスというよりは、
この二人の関係は「Zガンダム」のクワトロとカミーユの方に近いかもしれない。


つまり、凛はネオジオンのシャアではなく、エゥーゴのクワトロだ、ということだ。
そう考えると気になる台詞がある。



「前回の戦いを踏まえて判断したの、それ以上でもそれ以下でもありません


なにげない台詞のように見えますが、
この「それ以上でもそれ以下でもありません」という
厳密には日本語としておかしい表現。
これはいわば「アニメオタク間の符合」なのです。


そう

「今の私は、クワトロ・バジーナ大尉だ。それ以上でも、それ以下でもない」
このクワトロさんのかっこよさとダサさを同時に表現した名台詞。
黒田洋介さんが脚本だったらもっとわざとらしく使うんでしょうけど、
そこは10年代として控えめな使用というところに時代を感じますね。


ちなみに、このあとクワトロさんはカミーユに殴られて涙チョチョ切れ。


カミーユが殴りかかっていったのに対して、
ゆらはそれが出来ないというところに、ゆらの性分を感じますね。



さて、そんな半分本気で半分冗談な分析に加えて、
今回の話数で見せた、
凛の判断」も
その本質を知る上では重要。


ゆらは凛のことを「勝利至上主義者」だと考えたようだが、
それはどうだろうか?


もし、凛がゆらの考えたような勝利至上主義者であれば、
ネオジオンのシャアのようにゆらをマシーンにするべきであって、
また、ゆらもマシーンになりたがっていた。
しかし、凛はそういう選択をしなかった。


では、凛の本質は何なのか。
実はそのヒントは、9話のそのらが語る凛の過去で既に表現されていた。


ゆらの「凛=勝利至上主義者」というそもそもの考えも、9話ラストのそのらの
あの日から凛は変わったんだ。だから、サバゲーは勿論、どんな時でも勝利を求めるようになった
ここから来ているわけですが、
これがゆらとさらに視聴者をミスリードしている。



その前の台詞をちゃんと聞くと

「師匠が戦争で亡くなって、それからずっと、凛は弱さが師匠を殺したと思っている。あの日から凛は変わったんだ」
となっているわけです。


つまり、原因は「師匠の死」。
凛は「どうすれば師匠は死ななかったか」と考えたでしょう。
もちろん、勝つこと強くなることは重要ですが、
勝っても死んだら同じです。
強くても死んだら同じです。


つまり、重要なのは「戦場で死なないこと」。
そしてそれはサバゲーや多くの「"試"合」では勝つことを意味しています。


こう考えると、
「なぜメディック戦をゆらの初陣に選んだのか」
「なぜゆらをメディックに選んだのか」
という部分が見えてくる。


それは
戦場で死なないことの重要性」を学ばせるためだ。
凛とそのらの師匠がどういう死に方をしたのかは分からないが、
衛生兵が間に合っていたら死んでいなかったかもしれない


そういう意味で、ゆらは最悪の選択をした。
衛生兵でありながら、敵兵を殺すことばかりに集中した。
それではやはり師匠は死んでしまう。


その決定打となったのが、


この「今のはメディックコールじゃない」。
またこのシーンは
すかさず駆けつけている凛にも注目したい。
ゆらの選択は仲間を殺す選択。
おそらく凛にはそれが許せない。


戦場においては命令違反は即、死に繋がる。
そしてそれを断じるのもリーダーの役目だ。


ヘルシングの少佐の言葉を借りれば

「抜け駆け先討ちは兵(つわもの)の華」「ああ、やっぱり」「ならばそして」
「命令を反しあたら兵を失った無能な部下を処断するのもまた 指揮者の華」

と言ったところか。
常在戦場」の凛ならば、
その処断は、練習試合だろうとなんだろうと、関係ない。
戦場で処断すべきものは普段から処断する。
それが凛の考える「強さ」であり「死なないための思想」


凛も器用じゃないから、
残念ながらそれはゆらには伝わらなかった。


次回、彼女がどう動くのか、そこが焦点となるだろう。