ステラ女学院11話〜今は亡き男と、妄想を代理する女〜

ここに来て、島崎奈々子さんをコンテ・演出に起用することできたのは
スタッフィングの妙技かあるいは幸運か。


ステラ5話で島崎奈々子さんがコンテ演出に入ったときは、
ジュエルペット常連演出家」としての手腕を買われて、
コミカルな演出のためのコメディリリーフとしての参加だと思っていた。


しかし、本命はこの11話だったのだ。



島崎奈々子さんについて簡単におさらい。
島崎さんといえばまずはメルヘンとギャグの巧さ
今期でいえば、ジュエルペットハッピネスのローテ演出家であり、
劇場版アンパンマンの演出を長年勤めてもいる。


また、もう一面としては、「女性向けアニメ」の名手でもある。
監督作である「セイント・ビースト」や、近年では「うたプリ」「君と僕」などへの参加もある。
(君と僕の島崎回参考:http://d.hatena.ne.jp/karimikarimi/20111015/1318683572
ナナメの構図はステラ11話でも有効的に使われている。)


さて、そんな島崎さんの演出作品の中でも、
島崎さんらしく、かつ、非常に面白いのが
妄想代理人5話」
である。


凶悪な通り魔「少年バット」が逮捕され、
取調べを受けるという回。


しかし、この少年は「自分はゴーマを倒すべく選ばれた戦士!」
と言い出す



というところから、今敏監督十八番の虚構現実の混ざり合った
今敏自身が『千年女優のパロディをやった』と明言している。)
妄想世界での取調べが起きるわけですが、
そこは島崎さん、今敏作品史上でも類を見ない、面白さとくだらなさが同居した回



この妄想代理人的、あるいは今敏イズムが実はこのステラ11話には色濃く反映されている



そこで、今敏監督のサイトのコラム『「妄想」の産物』の5話について書いてある部分について
いくつか見ていこうと思う。


●妄想5話の一つのキーワードは「音」
5話についての言及もそこから始まります。

 パラパパッパパー!というファンファーレは、少年バットの模倣犯・狐塚が異世界へと誘う第5話、「聖戦士」のテーマ音である。ゲームのレベルアップのSEを擬している。平沢さんに作っていただいた実際のファンファーレをなるべく正確に表記すると、「パッパッパッパラパー」といった感じか。平沢さんにお願いするには心苦しくもあった。
 5話本編内、異世界で呆れた猪狩が口にする。
「パラパパッパパーじゃねぇってんだ」
 BGMで聞こえている筈の音が猪狩にも聞こえているというのも妙な話だが、ある世界と別な世界のズレ、繋がる筈のない世界が繋がる様を楽しむ話数であるからこのくらいのことは当たり前。


この部分、ステラ11話を視聴済みの方なら、分かったことでしょう。
そう、ゲーセンでの

(そもそもこのゆらの格好が既に少年バットっぽいわけですが)
このシーン。


裏では、ゾンビガンシューティングが放置されて
ザクザクとダメージを受ける音が流れている。
つまり、ゲーム音によってゆらとれんとの心の傷つきを表現しているのです


しかし、それはまだ序の口。
このシーンのよさは、れんとの「いい加減にして」

の後の無音


何でゲーセンなのか。
それはゲーセンが音で溢れたうるさい場所だからです。
無音を際立たせるには騒音が必要というわけですね。


音の使い方、音楽の使い方については、
この話数ではかなり意図的に「違和感」を出しているところが多くあり、
ゲーセンのシーンはその象徴でしょうね。



●世代間の溝、ディスコミュニケーション
今敏が妄想5話を千年女優のパロにして、
そこで表現したかったのは、千年女優のテーマの「裏」です。

 結論を言ってしまえば、「千年」では話の進行に従って世代の溝が埋まるようにしていた構図を、
裏返してより断絶が深まって行くとしたのが5話である。
 なぜ同じ作者がその作品でまるで裏腹なことを言うのか。それを矛盾しているというのは子供じみた考えであろう
矛盾したものを同時に抱え持つ、捻れを抱えながら常にバランスを考えつつ生きるのが大人というものだと私は思う。
この件に則していえばこんないい方もできる。
「世代間のギャップは深まるばかりの現状だが、その間にせめて架橋する努力はしたいものだ」
 というのが「千年」の態度で、
「世代間に架橋することで双方にとって有用な知恵やアイディアの交流が生まれて行くことを期待したいが、
どうせ互いに理解なんか出来るわけもないし、理解しようという努力もしやしないのさ」
 というのが5話の態度である。私にはその両方の態度がある、というだけのことだろう。


ステラ11話のゆらはまさに後者の妄想5話の態度で作られている。


正確には「世代間」に限定しないかもしれない。
それは人間の個人間全てに成立する。


「個人間のギャップに架橋することで双方にとって有用な知恵やアイディアの交流が生まれて行くことを期待したいが、
どうせ互いに理解なんか出来るわけもないし、理解しようという努力もしやしないのさ」


ゆらは、そういった「ディスコミュケーション」の思想を体現したキャラクターだ。
「私、向いてなかったのかも」
という、究極のディスコミュニケーションアニメ「宇宙をかける少女」を彷彿とさせる台詞があったのも
そう考えれば自然だ。


この考えではギャップはそれぞれの歩み寄りや交流で埋めるものではないのかもしれない。
ゆらは、自分の中の空想世界で、もう一度立ち上がるを選んだ。
それはこれまでそうで、髪を切ったときもそうだし、4話の時もそう。
彼女は、空想力、あるいは妄想力で生きているのだ。



それは良いとも悪いともいれるものでもない。
あるいは、現代風であるということなのかもしれない。


最後に、再び、故今敏監督のコラムからの引用で締めたいと思う

たわけた空想を振り回しても良いとされてしまった世間
子供じみた価値観が支配的な現在
ないがしろにされがちな中年世代の在り方を込めたつもりである。
ここで子供に愚弄され嘲弄されたかっこうの猪狩だが、中年男をなめてはいけない。
後の7話で猪狩は子供に対して本気になって怒る。7話の取り調べで、
凄みのある声と顔で猪狩に任せて狐塚に迫る猪狩はかっこいい。
私はいいと思う。だが同時に私はこうも思う。


「オッサン、そんな単純なものの考え方じゃやっぱりダメなのよ。
オッサンも現実に深く関わって生きるならもう少し謙虚に学習した方がいいよ。言うでしょ?生涯学習ってさ」