ステラ女学院12話〜満足と不満足の狭間で、清算〜


ステラ12話を観たときの率直な感想しては
「物語としては欲求不満、アニメとしては満足」
だった。




物語については、先週の11話で99%終わっていたと言って過言ではない。


数少ない物語としては、12話にあったのは、
●ゆらの「れんとの飼い主になる覚悟」
くらいだろう。


11話で、ゆらがれんとを「犬」だと認識していたことが表現されていました

そして、ゆらはこの、やたらと懐いてくる「犬」に対して、
飼う決心がつかなかった。


しかし、11話ラストで「自己肯定」を終えたゆらは、
やっと、れんとの想いを受け入れて、
弾をもってくるように命令」し、
そして、れんともそれに応えた、というわけです。


百合オタ的には、この


一連のシーンはぐっと来ましたね!


やはり、ゆらは女王の器。
れんとはそれを見抜いたのか。
れんとがゆらを気にかけていたのは、
ゆらを救おうというのではなく、自分の飼い主として覚醒してほしかったから
だったのか。




★物語としてのアニメ、表現としてのアニメ
このステラ12話のスタイルを観て思い出したのが、
押井守の最高傑作の一つ「御先祖様万々歳」の最終話です。


御先祖様万々歳は全6話のOVAシリーズですが、
ストーリー的には5話で完全に終わっています。


御先祖様万々歳5話の終盤において、押井的狂言回しである室戸文明は

あらゆる物語の最終的な、そして至高のテーマとは、実はその物語を終わらせることでなければならない!

と述べている。
そして、御先祖様万々歳の、そして押井の押井守たるゆえんは、
ここまで、言い切り、
そして言い切ったキャラに、まさに「物語を終わらせた」のに関わらず、
その後に6話を作ってしまったことにある。


御先祖様万々歳の6話は、まさに表現のためのアニメだった。
高まり切って、物語から解き放たれた押井演出と、
アニメというものを究極まで突き詰めようとしたらうつのみやさとる、および連なる一流原画マン
作りだす作画こそがこの6話の全てである。



ステラ12話は、それに近かった。
やりたかったのは物語ではなく表現
では、彼らがやりたかった表現とは何なのか



★トリガーとの決別


7話から前回までというのは、
80年代からエヴァのある90年代、そしてフリクリくらいまでの、
ガイナックスでした。


ゆら=川尻監督
という私的で自己言及的な物語の裏の構造は
もとは「究極のコピーバンド」と言われていたガイナックスの、
まさにガイナックスらしさ「ガイナックスの模倣」「富野の模倣」「宮崎駿の模倣」
などの模倣。
今の横並びのものや、流行のものではなく、
いまや古典となりつつあるものの模倣。


そして11話において、ゆらはエヴァの「おめでとう」であり
フリクリの「中学生」なりになった。


では、その先を描かれるものは何か。


それは、00年代のガイナックスであり、
今石洋之であり、吉成曜であり、現トリガーだ。




これらの表現はまさに彼らの象徴だ。


特に対全校生徒は


天の光は全て敵
を彷彿とさせた。
今石監督が、グレンラガン最終話では「天の光は全て星(=仲間)」と、
したその変遷に対して、
ステラではまず、グレンラガンの1話の域に到達しようとした
とみることができる。


ゆらが川尻監督なら、そのらは今石監督なのだ
グレンラガンの時に、庵野監督らがカラーにいってしまって
その様はカミナ=庵野監督、シモン=今石監督
だったように。


その今石監督も。もうガイナックスにはいないし、
そのらはもうC3部にはいない。


それを受け入れて、このガイナックスで作っていかなければならない。
ステラ女学院はそのための清算なのだ。


そう考えるとラストのそのらの台詞の「だから、お前らが来い!」

も印象的で。


つまり、これは今石さんが
ガイナックスに残ってる)お前らが(トリガー)に来い!
っていっているように聞こえるわけです。


しかも

「(トリガーで)待ってるぞ」と


でも、その前のカットでゆらが一人で微妙な顔してたのも印象的で

ゆら=川尻監督は、C3部=ガイナックスからは当分出ないかもしれませんね。



ラストは

今石さんも大好きなハーモニーで〆。