藤津亮太さんのレビュー(短評)の書き方講座〜時をかける少女編〜を受けてきた


レビュー講座に土曜日にまた行ってきました。


今回のお題は『時をかける少女』……


なんというか今の俺にとっては細田守
昔好きだったけど幻滅した女の子」的なところがあるので、
なかなか、感情の制御の難しいお題。


とかいいつつ、限定版DVDも絵コンテもムックも細田守インタビューが載ったFreestyleも
全部いまだに持っているんですが。



そんなわけで、どう書くか。
橋本カツヨ信者として個人的な恨み節をつらつらと書いてもいいんですが、
それではせっかく、藤津さんの講座に行く意味が無い。
「レビュー=バイヤーズ」というのが、この講座の根底にあるので、
これに則って、ブログではまったく気にしてない、
読んでもらう」ことを主眼にしてみよう。
とそんなことを考えていました。


●書く段階
とりあえず念頭にあるのは、
「『時かけ』は細田守の変換点だった」ということ。
それは、一番最初、『時かけ』を試写会で見た時にはわからないことだった。


その後、『サマーウォーズ』がヒットし、
『おおかみこども』はその上をいく大ヒットをした。
しかも、それらは橋本カツヨファンとしては、満足できるものではなかった。


細田守は『時かけ』で変わってしまったのだ。


しかし、よく考えてみると、
時かけ』自体が「真琴が変わる」物語である
そこで、それをテーマに書けないか、と。
今回は時間があまりなかったので、
思いつくままに書いていった。


で、出来たのがこれ

想定媒体:アニメ誌の企画『今だからこそ見たいアニメ100選』


 細田守の演出家としての第二の人生は『時をかける少女』から始まった。
 筒井康隆の小説を原作とした劇場アニメーション『時をかける少女』が公開されたのは2006年のことだった。監督は当時、知る人ぞ知るアニメ演出家だった細田守。それまで所属していた東映アニメーションを本作の制作のために退職して挑んだ。キャラクターデザインには『新世紀エヴァンゲリオン』などで知られる貞本義行を起用し、美術監督は宮粼駿作品で活躍してきた山本二三が担当している。


 公開当初は全国でもわずか21館のみの公開と、他のアニメ映画とくらべても興業規模ははるかに小さかったが、口コミやレビューで評判が広がり、最終的には100館以上で上映された。特に朝日新聞のレビュー記事で、同時期公開の話題作『ゲド戦記』や『ブレイブ・ストーリー』を押しのけ、「夏は『時かけ』もう決まり」の見出しを飾ったのは当時の様子を物語っているだろう。


 本作では筒井康隆の小説は原作というよりも原案に近く、「タイムリープ」という要素以外はほぼオリジナルである。主人公は現代の東京に住んでいる女子高校生・真琴。ショートカットのよく似合うボーイッシュな女の子で、「やってやれないことはない。やらずに出来たら超ラッキー!」とでも言い出しそうな元気さが特徴的だ。


 真琴はひょんなことから「タイムリープ」という能力を身につける。彼女はそれを使って、何時間もカラオケで歌う、焼き肉を何回も食べるなど、自分のちょっとした願望を叶えていく。しかし、だんだんと真琴の思い通りにはいかなくなり、大きな挫折の時を迎える。


 本作品は、一流アニメーターによるレイアウト・動きなどのアニメーション的な部分や、細田守の演出技術が高く評価されているが、その一方でクライマックスのストーリー展開については賛否両論となることが多い。批判として、真琴が挫折に対して何ら自ら解決をしておらず、他人任せあるいはご都合主義になっているのではないか、という声が大きい。


 確かに、教訓的あるいは教育的なアニメであれば、視聴者に示される「理想」として真琴は自らの手で挫折を乗り越えてほしかったという意見も理解出来る。特にアニメーション映画には宮粼駿という偉大な先人がおり、もし彼が監督であれば、真琴が自らの意思と行動力で挫折を乗り越えていったであろうことは想像に難くない。


 だが、この本作はそもそもそういう「理想」を示すものではない。真琴は物語の中盤以降、自らの意志と行動力で周りの人たちの状況を良くしようと奮闘するが、彼女が頑張れば頑張るほど状況は悪化していく。個人の意志や行動力は世の中の状況を変えたりはしないのだ。


 では、意志も行動力も通用しない世界で、状況を改善するものは何なのか。それは「他人」であり「運」だ。


 本作の制作の数年前、監督の細田守東映アニメーションからスタジオジブリに出向し、『ハウルの動く城』の監督をしていた時期がある。一世一代の大仕事、細田守はそれまでの仕事仲間を総動員する。しかし、制作は難航し、死力の限りを尽くすも細田守は監督を途中降板、『ハウル』は宮粼駿を監督として作られることとなる。


 彼は実際、その後のインタビューで『(自分が呼んだ仕事仲間は)もう、誰も自分を信用してくれないだろう。映画って1人じゃ作れないからさ、本当に「もう俺は終わりだ!」と思ったんだよ 』と語っており、その挫折感は凄まじいものであった。


 だが、彼はその後、挫折から立ち直り、この『時をかける少女』に辿り着いた。それは彼の能動的な何かというよりは、周りの人間の助けや幸運だったという。彼はそういった現実を本作で表現しているのだ。


 真琴のその後は本作には描かれていないが、細田守はその後、日本を代表するアニメ監督の一人となり『サマーウォーズ』、『おおかみこどもの雨と雪』とヒット作を連発していく。細田守が挫折を乗り越えて第二の演出家人生を成功させていったように、ラストシーンの後、やるべき事とやりたい事が一致した真琴は、第二の人生を歩んでいくのだろう。


本当は7段落目までで終わろうと思ったのですが、
感情に引っ張られてその後を書いてしまいました……


感情を処理できない人類はゴミ、なんだよなぁ


感情を処理出来なかった結果、あんまり推敲も適切に行われてるとは思えませんね。



というわけで、藤津さんからの指摘

 細田監督自身と作品を重ね合わせる原稿。そのテーマにブレはない。
他人の心の中を忖度する原稿なので、藤津的にはちょっと踏込みすぎかなと
思わないでもないけど、そこは好みの範囲かな。
 細かな言葉遣いや情報の提示の仕方が、ちぐはぐなところがあったりする。
例えば、最初にもう名前をあげているので「監督は当時、知る人ぞ知るアニメ演出家だった細田守。」
というのが後に出てくるのはちょっと違う。
 まとめの部分で真琴のこれからは、第二の人生と言っていいのかどうか。
まだ若いし、ちょっと大げさな(つまり、自分の見立てに引っ張りすぎな)気もする。


他、口頭の指摘

 確かに、教訓的あるいは教育的なアニメであれば、視聴者に示される「理想」として真琴は自らの手で挫折を乗り越えてほしかったという意見も理解出来る。

主人公がアクションを起こした方がいい理由は教訓的かどうかとは関係ないのではないか。
時かけ』の場合は真琴が起こした不始末なので、
真琴が自分で始末をつけるのが、視聴者の頭のなかでのバランス。
しかし、『時かけ』ではそういう選択をしなかった。

それは彼の能動的な何かというよりは〜

インタビューを真に受け過ぎてはダメ。
監督本人が行動してないわけはない。
インタビューでは、謙遜してそういう言い方になっているのが普通。


大筋は、まとめ部分までは巧くいっているので、まとめだけ直せば一応はOK
細田監督は第二の人生と言ってもいいが、真琴は「大人になった」がせいぜい。
しかし、細田監督が『時かけ』で大人になったと表現するのはイヤラシイ。
その後の作品の話に持っていくか、
『他人』と『運』の話で締めるのがベターか


「インタビューを真に受けない」は、なるほどと想いましたね。
私も最近は割りと「真に受けない」派であろうと思ってはいるのですが、なかなか。
「インタビュー絶対主義」としてインタビューを印籠のように振りかざさぬよう
用心せねば。


細かいところは直すとして、
ラストをどうするか。
その後の作品の話をするのは嫌なので、
となれば、やはり『他人』と『運』とで締めるか・・・


と思いながら修正作業

 時をかける少女』は細田守監督の転換点だった。
 劇場アニメーション『時をかける少女』が公開されたのは2006年のことだった後に『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』とヒット作を連発する監督の細田守も、まだ当時は知る人ぞ知るアニメ演出家。それまで所属していた東映アニメーションを本作の制作のために退職して挑んだ。キャラクターデザインには『新世紀エヴァンゲリオン』などで知られる貞本義行を起用し、美術監督は宮粼駿作品で活躍してきた山本二三が担当している。


 公開当初は全国でもわずか21館のみの公開と、他のアニメ映画とくらべても興業規模ははるかに小さかったが、口コミやレビューで評判が広がり、最終的にはミニシアター並みの規模ながら興行収入は2.6億円となった。特に朝日新聞のレビュー記事で、同時期公開の話題作『ゲド戦記』や『ブレイブ・ストーリー』を押しのけ、「夏は『時かけ』もう決まり」の見出しを飾ったのは当時のアニメファンの本作への期待感を物語っているだろう。


 本作は筒井康隆の同名小説を原作としているが、「タイムリープ」という要素以外はほぼオリジナルである。主人公は現代の東京に住んでいる女子高校生・真琴。ショートカットのよく似合うボーイッシュな女の子で、「やってやれないことはない。やらずに出来たら超ラッキー!」とでも言い出しそうな元気さが特徴的だ。


 真琴はひょんなことから「タイムリープ」という能力を身につける。彼女はそれを使って、何時間もカラオケで歌う、焼き肉を何回も食べるなど、自分のちょっとした願望を叶えていく。しかし、だんだんと真琴の思い通りにはいかなくなり、大きな挫折の時を迎える。


 本作品は、一流アニメーターによるレイアウト・動きなどのアニメーション的な部分や、細田守の演出技術が高く評価されているが、その一方でクライマックスのストーリー展開については賛否両論となることが多い。批判として、真琴が挫折に対して何ら自ら解決をしておらず、他人任せあるいはご都合主義になっているのではないか、という声が大きい。


 確かに、真琴には自らの不始末を自らの手で解決するという理想的な展開を求める意見も理解出来る。特にアニメーション映画には宮粼駿という偉大な先人がおり、もし彼が監督であれば、真琴が自らの意思と行動力で挫折を乗り越えていったであろうことは想像に難くない。


 だが、この本作はそもそもそういう「理想的な展開」を示すものではない。真琴は物語の中盤以降、自らの意志と行動力で周りの人たちの状況を良くしようと奮闘するが、彼女が頑張れば頑張るほど状況は悪化していく。個人の意志や行動力は世の中の状況を変えたりはしないのだ。


 では、意志も行動力も通用しない世界で、状況を改善するものは何なのか。それは「他人」であり「運」だ。


 本作の制作の数年前、監督の細田守東映アニメーションからスタジオジブリに出向し、『ハウルの動く城』の監督をしていた時期がある。一世一代の大仕事、細田守はそれまでの仕事仲間を総動員する。しかし、制作は難航し、死力の限りを尽くすも細田守は監督を途中降板、『ハウル』は宮粼駿を監督として作られることとなる。


 彼は実際、その後のインタビューで『(自分が呼んだ仕事仲間は)もう、誰も自分を信用してくれないだろう。映画って1人じゃ作れないからさ、本当に「もう俺は終わりだ!」と思ったんだよ 』と語っており、その挫折感は凄まじいものだったであろう


 だが、彼はその後、挫折から立ち直り、この『時をかける少女』に辿り着いた。それは彼の能動的な何かというよりは、周りの人間の助けや幸運だったという。彼のそういった体験が本作には色濃く反映されている。


 真琴はラスト直前まで、自分で何でもなんとかしようとする少女だった。タイムリープも自分の判断で行い、窮地に陥っても誰にも相談せずに一人で何とかしようとする。それは現代のアクティブな女の子の象徴でもある。しかし、彼女は挫折を経て、物事を解決するには『他人』や『運』も必要だという事を学んだ。『時をかける少女』は細田守監督の転換点あると同時、真琴の転換そのものを描いた作品だったのだ。

うーん。
結局ね、思ってもいない事を書くのは難しいって事なんだと思う。



というわけでラストはリミッター解除版も書いとくか

(最終段落)
真琴は自分で何でもなんとかしようとする女の子だった。その無邪気さと幼さとバカさが彼女の輝く魅力だった。
真琴は物事を解決するには『他人』や『運』も必要だと学び、大人になっただろう。
しかし、そんな大人になってしまった真琴に魅力を感じるのだろうか。
細田守監督のその後の作品では、真琴のようなバカな女の子は出てこない。
細田守監督は大人の作品を作るようになってしまった。
そこには大人の分別の良さと賢さはあっても、かつてのような輝く魅力はない。
時をかける少女』は最後の輝きであり最初の濁りの作品なのだ。


PS:他の生徒の方に「ひみつのアッコ」の細田回を引っ張ってきて書いてる人がいて、
  「あー素直にそっちにすれば良かった」と後悔。
  「なんで嫌いになったのか」ではなくて、「好きだった頃の話」をすべきだったんだなぁ。
  そういう意味では、今回は最初から失敗していたんだろう。