コピー世代はもう死語なのだろう


どこから書こうか迷ったけどここから。


俺はエヴァンゲリオンが大好きです。
ウテナに出会うまではエヴァが一番好きだった。


しかし、俺が中学生のころのエヴァについて語られる時に必ず言われていたのが
「コピー世代」という言葉。
庵野自身、自分たちが最初のコピー世代という発言を繰り返していたし、
庵野の親友である幾原もまたそれに同意していた。


これは自称だけでなく、いわゆる「アニメ第三世代」といわれる人たち
オタキングいうところの「オタク」は制作者もファンもみんな
自分達がコピー世代だということに負い目を持っていた。


しかも富野・宮崎の両巨頭が彼らの負い目をえぐり続ける
「アニメを見てアニメを作るな」
「アニメなんか見ていても何にもならない」
「アニメなんて最低」


エヴァについてもウテナについても、
上の世代の人からはいつまでも「あれは○○のコピー、それは××のパクリ」
と言われていた。
ウテナについて何か論争をするときは、大抵相手はこの類の人間だった。


まだ無名時代の、細田守湯浅政明も知らない時代の山本寛ウテナについて語る


>「パロディからの超克」という監督・幾原の目論見から大きくハズレて、どう考えても明らか
>な’70年代からの「引用」(「天井桟敷」は勿論の事、出崎アニメの影響も大。
>背景のタッチやBOOK引きの具合なんてモロ「家なき子」)はパロディの節度を失って、
>皮肉にもわれわれに’70年代そのものの新鮮さを教えてくれる。
>またそれが見事な完成度だけに、悲しかった。


この論調、ウテナに対する批判はどれもこんな感じだった。
ウテナはパロディから超克したのか」
ウテナ出崎統を越えたのか」
論点はそこにあり、
ウテナ出崎統のパロディなのか」という
論点で争うことは今まで無かった。
なぜなら批判者にとっても賛美者とってもそのことは当たり前だった。


だからakitaさんの
「『ウテナ』を見ている世代の20代後半以上が
(新房作品はウテナのパクリと)指摘しないのはどういうことか」
という問いに答えるならば
その世代の人にとっては、ウテナにおける「パクリ論争」は
常にウテナがパクった側であり、
それを知りながら「新房、てめーウテナパクッたな」とは言いたくない。
だって、それはウテナを批判していた人と同じ行為だから。
あいつらと同じことはしたくないのだ。
むしろ、「金田モドキ」で出崎オタクで市川昆マニアの新房は
どちらかといえば仲間だという意識がある。
いいんだコピー世代だって。


現に「コピー世代論争」を知らないakitaさんが70年代を意識せずにウテナを楽しんでいる。
つまり、知らなくていいんだ、そんなことは。
知りたい人だけ知ればいい。