天空の城ラピュタと未来少年コナンについて
先日、藤津亮太さんの「アニメを読む」を聞きに行った。
題材は『未来少年コナン』
言わずと知れた宮崎駿による傑作TVアニメだ。
今回聞きに行ったのは、
スタジオジブリの宮崎駿というものを先に知っている世代として、
『未来少年コナン』をリアルタイムで見ていた世代の目線というものに興味があったからだ。
収穫は色々とあったが、私の中で一番大きかったものは
ラピュタとの比較からみたコナンという切り口、
そしてそれが世代によって違うのではないか、
ということだ。
●宮崎駿にとっての漫画映画
ラピュタとコナンの比較の上で重要なのが、「宮崎駿にとっての漫画映画」。
漫画映画というのは、それ自体にはあまり意味はなくある種政治的な言葉だが、
宮崎駿にとっては、意味のある言葉だったようだ。
宮崎駿の発言などを総合すると
漫画映画性は
1、説得力を持ちつつも、ルール破りな嘘
2、秘めている願いや憧れを呼び起こす理想的な主人公
にあると解釈できる。
例えば、コナン6話の有名な大ジャンプはルール、今風にいうと「リアリティレベル」を破っている。
しかし、そのルール破りが作品に漫画映画としての魅力となる。
(宮崎駿「漫画映画の魅力とは、自転車が自動車と競争して、説得力をもって勝つ様子を描けること」)
そして、コナンは「ラナを助ける」というまっすぐな行動原理しかもたない、
高潔な主人公であり、そのコナンのまっすぐな高潔さが物語を切り開いていく。
●漫画映画ではなかったラピュタ
一方、その後に「漫画映画」として企画されたラピュタはどうか。
何人かのリアルタイムで『未来少年コナン』を視聴し、
その後にラピュタを見たという人に聞いてみたが、
「ラピュタは未来少年コナンと非常に似ているが、
ラピュタにはコナンほどの興奮や感動はなかった」
という意見が多かった。
ラピュタは構成要素だけ見ると『未来少年コナン』と非常に類似している。
だが、大きく異なるところがあるという。
それはラピュタの主人公の一人であるパズーが、
コナンのような「漫画映画の主人公」ではなかったからだ。
彼はコナンのような超人的な身体能力も精神力も、高潔さもない。
その代りに挫折と葛藤があるという普通の少年だった。
逆に言えば、コナンに葛藤がなかったからこそ『未来少年コナン』は漫画映画だったのだ。
パズーが漫画映画の主人公足りえないパワー不足の普通の男の子であったために、
『天空の城ラピュタ』も漫画映画の魅力を失い、
コナンにハマった人たちには物足りないものとして映った。
コナンはラナとレプカの二人に割って入るだけの力があったが、
パズーにはそれが無く、
結果的に「パズーが居る必要があったのか?」という疑問を呈される事態に陥っている。
●ラピュタ起点での見方
前項までは、藤津さんの講座の要約(の一部分)であるが、
子供のころ、ラピュタを何十回とみて、
そして時間がたってからコナンを見た人間としては、
これまでの話が裏返る。
私は、『未来少年コナン』というアニメを面白いと思いながらも
どこか違和感を感じていた。
特にラナだ。
ラナは意志の強さを見せるシーンがある反面、
コナンの助けが無ければ無力であるという一面も持ち合わせる。
その両面性が私には一種の狡さに見えた。
言ってしまえば、
宮崎さんの「意志の強い娘萌え」と
「コナンに助けられるエスコートヒロイン」
という二役を背負った結果、
コナンの力を利用するしたたかさを感じてしまうのだ。
何しろ、ラナはラスボス・レプカとの最終決戦から離脱させられてしまい、
彼の最後にすら立ち会ってないのだ。
そして、その違和感の源泉は
『天空の城ラピュタ』のシータとの比較だ。
無意識のうちにラナにシータを投影し、その違いに違和感を感じていたのだ。
パズーが漫画映画的な魅力を持たない普通の子であったために、
シータは自身でムスカと対峙しなければならなくなる。
彼女にはラナのようなエスコートヒロインとしての甘えはない。
シータはラナとは違い、最終決戦に最後まで参加し、
その代償として髪を失うことになる。
ラピュタ基準で見れば、
シータの自立心は、ラナの依存心よりもずっと魅力的だ。
●ムスカとレプカ
コナン=漫画映画の不在で変わったのはシータだけではなく、
敵役であるムスカもそうだ。
『未来少年コナン』のレプカという損な役回りを押し付けられてしまった存在と言っていい。
藤津さんが展開していた
「『未来少年コナン』=戦後の風景」論で言えば、
レプカもまた大戦の被害者であろう。
大戦を引き起こした戦前世代(ラオ博士や委員たち)
大戦時には子供であった世代(モンスリー)
大戦後に生まれた世代(コナンやラナ)
この世代構成の中で、
おそらくレプカは大戦時に若い将校であったのだろうと思われる。
軍国主義時代の教育を受けて実戦を経験したレプカが、
野心を持ってしまうのも仕方がない。
しかし、コナンの漫画映画性によってレプカは「悪者」として断罪されてしまう。
それでいいのだろうか?
その意味において、ムスカはもう一人のラピュタであるという役割を得た。
『ラピュタ』においての主人公は言ってしまえば、
二人のラピュタだったのだ。
コナンが割って入ったことで文字通り崩れてしまった
二つの可能性という構造が、
『天空の城ラピュタ』ではしっかり機能している。
●無意識の枷
それまでのアニメ視聴のキャリアやその中での感動などは、
過去の作品を遡ってみていく時に思わぬ枷となることもある。
コナンを見る時にラピュタを意識したことはほとんどなかったが、
今回、そこが無意識の枷になっていることに気が付いた。
バンダイチャンネル見放題やdアニメストアで手軽に過去の作品に触れるようになった今、
この無意識の枷をどの対処していくか、
ということを考えねばならないのかもしれない。