今期はガールフレンド(仮)で決まり


今期は豪華なクールだ。
それはわかってるけど、いまいちワクワクしないので、
Dアニメストア三昧の日々


でもこれだけは見ようとなった作品がある。
それがガールフレンド(仮)だ。


完全に油断してましたね。
森田さんは無口。の林監督ということで見てみたんですが
俺好みの「圧縮率」と「わかりやすいレイアウト」を兼ね備えた
素晴らしいアニメだった。


とにかくカット繋ぎが秀逸。
OP明けか2分弱で新体操をやっているという
このテンポ感。

体育館に入る

着替える

準備体操

練習


この一連のカット繋ぎのストレスの無さ!


その後の、
チャイム→教室という繋ぎも
本来あるはずの「着替え」というシーンをさらっと飛ばしている。


モタモタしたアニメだとここで、
「急がなくちゃ」とか言いながら着替えるシーンが入りそうなものだが、
着替えはもう最初に3カットも使って見せているので要らないわけです。


レイアウトでいうと、
ここが好きで

こういう、「レイアウトシステムしてます」って感じのレイアウトに
弱いんだよなぁ。
この左側の掲示板に張られたプリントにキュンキュン来てしまう。



校内ラジオも、ウテナファン的にはぐっとくる要素で

校内ラジオのメタ性というか、
「キャラクターも視聴者も、キャラクターの声をBGMとして聞いている」
という独特の感覚が好きなんだよね。
ある意味では、実存感ともいえるかもしれない。


そして、ラストのこのカット

背景の省略具合がかっこよすぎ!
こういう写実的すぎないのが好きなんだよね。



というわけで、
森田さんという究極の日常アニメを作った林監督。
1話を見る限りでは、その実力は本物。
今期はこれに決めた!

今のアニメオタクの鬼門・ルパン三世セカンドシリーズ


dアニメストアやバンダイチャンネル見放題の登場で、
過去の名作にアクセスしやすくなった昨今ではあるが、
その中で鬼門となる作品がある。


それが、ルパン三世セカンドシリーズ、通称:新ルパンだ。


何が鬼門か。
まず第一にその評価である。


今では、ルパン三世といえばまず『カリオストロの城
宮崎駿が監督した名作だ。
そして次にあがるのが『ルパンVS複製人間
こちらは吉川監督のハードボイルドさの光る名作。


そしてテレビシリーズとしてはやはり初代のファーストシリーズ、
通称:旧ルパンの評価がずば抜けて高い。


旧ルパンについては、アニメスタイルにおいても

小黒  で、『ルパン三世[旧]』も基本なんで、全部観てほしい。
   作画も勿論凄いんだけど、最近思うのは、画作りにしろストーリーにしろ、
   とにかく『旧ルパン』はアイデアや描写が独創的であり、
   なおかつ魅力的だったんだ、という事。今になっても延々とパクられたり、
   「『旧ルパン』に戻ろう」と言われるのは、そういうわけでしょう。
   単にキャラクターが魅力的だったとか、作画がよかったとかいう事だけではない。
   宮崎(駿)、高畑(勲)、さらには吉川(惣司)、出崎(統)と、
   当時の東京ムービーとしては考えられるスタッフが全て投入されているよね。
   作画だけでなく、演出もいいところが多い。

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とベタ褒め。
カリオストロ』の緑ジャケット効果もあり、
「緑ジャケットこそ正統なるルパン三世」と考える人も多い。



そして、第二にはその話数の多さ。
旧ルパンが23話なのに対して、新ルパンは155話もある
とりあえず、宮崎駿145話『死の翼アルバトロス』最終話『さらば愛しきルパンよ』
だけ見とけばいいんでしょ?という人が多い。


かなり前に見たルパン三世ファンサイトには
「名エピソードの割合が第1シリーズは2分の1、第2シリーズは5分の1、第3シリーズは3分の1
などと書かれており、
155話もあるのに、名エピソードの割合は低いという、
なかなかに視聴者泣かせのシリーズでもあるのだ。


そこで、新ルパンの「見る価値のある話数」アニメスタイル等を参考に
ピックアップしていきたいと思う。


●まず浦沢義雄あり


現代のアニメオタクとしては、
新ルパンといえば、まず浦沢義雄である。


直近の『松太郎』でもその異質ぶりを発揮していた浦沢義雄
その脚本家としてのデビューが、
この新ルパンの68話『カジノ島・逆転また逆転』だ。


この話数のルパンは新ルパンらしい軽さを持っていながらも、
ここぞでのカッコ良さが光る、正統派。



正統派路線でいくのかと思いきや、
次に参加した78話『ロボットの瞳にダイヤが光る』からは、
その後の浦沢を彷彿とさせる不条理コメディが炸裂する。


この話数は旧ルパンから中心的に活躍している天才・青木悠三さんがコンテを担当しているのもポイントが高い。


浦沢脚本回は全て見ておいて損はないだろう。

68話『カジノ島・逆転また逆転』
78話『ロボットの瞳にダイヤが光る』
90話『悪い奴ほど大悪党』
92話『マダムと泥棒四重奏』
100話『名画強奪ウルトラ作戦』
106話『君はネコ ぼくはカツオ節』
117話『チューインガム変装作戦』
124話『1999年ポップコーンの旅』
128話『老婆とルパンの泥棒合戦』
138話『ポンペイの秘宝と毒蛇』
143話『マイアミ銀行襲撃記念日』

友永和秀さんの作画

次に見どころとなってくるのが、
カリオストロ』のカーチェイスでも有名な友永和秀さんの作画回。


カリスマアニメーターこと井上俊之

井上 まあ、友永さんのよさが発揮されていたと言えるのが、『新ルパン』だろうね。量もたくさんやっているし。

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と太鼓判を押している。


というわけで、上のアニメスタイルで言及されている話数をまとめておく

8話『ベネチア超特急』
14話『カリブ海の大冒険』
25話『必殺 鉄トカゲ見参』
92話『マダムと泥棒四重奏(カルテット)』
98話『父っつあんのいない日』


92話は浦沢脚本とダブルで楽しめる名エピソード


大塚康生さんの作画汗まみれ
旧ルパンやカリオストロ作画監督を務める大塚康生さん。
大塚さんは新ルパンにも参加している。


その様子は著書『作画汗まみれ』にも記述があり、
設立間もないテレコムアニメーションでなかなか苦労があったようだ。
ほぼ素人のテレコム研修1期生を率いて参加した72話『スケートボード殺人事件』については
私が担当した全作品の中で最低の作品になりました
というシビアな記述がある。
戦後の日本のアニメの父ともいわれる大塚さんの
全作品の中での最低」というのは
なかなか興味深い。


本の記述によれば
「動画チェックの大武正枝さん(直近では『となりの関くん』のキャラデザ)を泣かせていました」
というその研修生たちも、
新ルパンで数をこなして成長していきます。


新ルパンのテレコム回は、
テレコムという会社および研修生たちの成長を見る
という楽しみもあるのだ。


また、カリオストロをやった後のテレコム回については
前述の宮崎駿による2話数以外にも、カリオストロで助監督を務めた吉田しげつぐさんによる
151話『ルパン逮捕ハイウェイ作戦』
カリオストロの影響を受けた話数として言及されている。

72話『スケートボード殺人事件』
77話『星占いでルパンを逮捕』
82話『とっつあん人質救出作戦』
84話『復讐はルパンにまかせろ』
99話『荒野に散ったコンバット・マグナム』
105話『怪奇鬼首島に女が消えた』
151話『ルパン逮捕ハイウェイ作戦』
153話『神様のくれた札束』


●アニメ様365日
現代のアニメオタクに当時を伝える重要な資料、
WEBアニメスタイルの『アニメ様365日』
その中で、新ルパンに言及している回がある
http://www.style.fm/as/05_column/365/365_012.shtml


この中で、まだ出ていない回をまとめておく

時事ネタ
74話『恐怖のカメレオン人間』(74話)
93話『万里の長城インベーダー作戦』(93話)
94話『ルパン対スーパーマン』(94話)
111話『インベーダー金庫は開いたか?』(111話)


各キャラ名エピソード
58話『国境は別れの顔』
69話『とっつぁんの惚れた女』
85話『ICPO(秘)指令』
103話『狼は天使を見た』
108話『哀しみの斬鉄剣
112話『五右ェ門危機一髪』


石原泰三(三家本泰美)回
137話『華麗なるチームプレイ作戦』
148話『ターゲットは555M』

WEBアニメスタイル | アニメ様365日 第12回 『ルパン三世[新]』


時事ネタではほかにも81話『不二子! 男はつらいぜ』91話『時を駆ける少女』なんかもある模様。

●まとめ
挙げた話数はのべ約40話
最初に書いた
「第2シリーズの名エピソードは5分の1」という話、
あながちウソでも無さそうですね。


レンタルビデオでもかなりの高確率でおいてあり、
今はdアニメストアでも全話見られる
新ルパン。
厳選してみているのも良いんじゃないでしょうか。

天空の城ラピュタと未来少年コナンについて


先日、藤津亮太さんの「アニメを読む」を聞きに行った。
題材は『未来少年コナン
言わずと知れた宮崎駿による傑作TVアニメだ。

今回聞きに行ったのは、
スタジオジブリ宮崎駿というものを先に知っている世代として、
未来少年コナン』をリアルタイムで見ていた世代の目線というものに興味があったからだ。


収穫は色々とあったが、私の中で一番大きかったものは
ラピュタとの比較からみたコナンという切り口、
そしてそれが世代によって違うのではないか、
ということだ。


宮崎駿にとっての漫画映画
ラピュタとコナンの比較の上で重要なのが、「宮崎駿にとっての漫画映画」。
漫画映画というのは、それ自体にはあまり意味はなくある種政治的な言葉だが、
宮崎駿にとっては、意味のある言葉だったようだ。


宮崎駿の発言などを総合すると
漫画映画性は


1、説得力を持ちつつも、ルール破りな嘘
2、秘めている願いや憧れを呼び起こす理想的な主人公

にあると解釈できる。
例えば、コナン6話の有名な大ジャンプはルール、今風にいうと「リアリティレベル」を破っている。
しかし、そのルール破りが作品に漫画映画としての魅力となる。
宮崎駿「漫画映画の魅力とは、自転車が自動車と競争して、説得力をもって勝つ様子を描けること」)

そして、コナンは「ラナを助ける」というまっすぐな行動原理しかもたない、
高潔な主人公であり、そのコナンのまっすぐな高潔さが物語を切り開いていく。


●漫画映画ではなかったラピュタ
一方、その後に「漫画映画」として企画されたラピュタはどうか。

何人かのリアルタイムで『未来少年コナン』を視聴し、
その後にラピュタを見たという人に聞いてみたが、
ラピュタ未来少年コナンと非常に似ているが、
 ラピュタにはコナンほどの興奮や感動はなかった
という意見が多かった。


ラピュタは構成要素だけ見ると『未来少年コナン』と非常に類似している。
だが、大きく異なるところがあるという。
それはラピュタの主人公の一人であるパズーが、
コナンのような「漫画映画の主人公」ではなかったからだ。


彼はコナンのような超人的な身体能力も精神力も、高潔さもない。
その代りに挫折と葛藤があるという普通の少年だった。


逆に言えば、コナンに葛藤がなかったからこそ『未来少年コナン』は漫画映画だったのだ。
パズーが漫画映画の主人公足りえないパワー不足の普通の男の子であったために、
天空の城ラピュタ』も漫画映画の魅力を失い、
コナンにハマった人たちには物足りないものとして映った。


コナンはラナとレプカの二人に割って入るだけの力があったが、
パズーにはそれが無く、
結果的に「パズーが居る必要があったのか?」という疑問を呈される事態に陥っている。


ラピュタ起点での見方
前項までは、藤津さんの講座の要約(の一部分)であるが、
子供のころ、ラピュタを何十回とみて、
そして時間がたってからコナンを見た人間としては、
これまでの話が裏返る。


私は、『未来少年コナン』というアニメを面白いと思いながらも
どこか違和感を感じていた。
特にラナだ。


ラナは意志の強さを見せるシーンがある反面、
コナンの助けが無ければ無力であるという一面も持ち合わせる。


その両面性が私には一種の狡さに見えた。
言ってしまえば、
宮崎さんの「意志の強い娘萌え」
「コナンに助けられるエスコートヒロイン」
という二役を背負った結果、
コナンの力を利用するしたたかさを感じてしまうのだ。
何しろ、ラナはラスボス・レプカとの最終決戦から離脱させられてしまい、
彼の最後にすら立ち会ってないのだ。


そして、その違和感の源泉は
天空の城ラピュタ』のシータとの比較だ。
無意識のうちにラナにシータを投影し、その違いに違和感を感じていたのだ。


パズーが漫画映画的な魅力を持たない普通の子であったために、
シータは自身でムスカと対峙しなければならなくなる。
彼女にはラナのようなエスコートヒロインとしての甘えはない。
シータはラナとは違い、最終決戦に最後まで参加し、
その代償として髪を失うことになる。


ラピュタ基準で見れば、
シータの自立心は、ラナの依存心よりもずっと魅力的だ。



ムスカレプカ
コナン=漫画映画の不在で変わったのはシータだけではなく、
敵役であるムスカもそうだ。


未来少年コナン』のレプカという損な役回りを押し付けられてしまった存在と言っていい。
藤津さんが展開していた
「『未来少年コナン』=戦後の風景」論で言えば、
レプカもまた大戦の被害者であろう。


大戦を引き起こした戦前世代(ラオ博士や委員たち)
大戦時には子供であった世代(モンスリー
大戦後に生まれた世代(コナンやラナ)


この世代構成の中で、
おそらくレプカは大戦時に若い将校であったのだろうと思われる。
軍国主義時代の教育を受けて実戦を経験したレプカが、
野心を持ってしまうのも仕方がない。


しかし、コナンの漫画映画性によってレプカは「悪者」として断罪されてしまう
それでいいのだろうか?


その意味において、ムスカはもう一人のラピュタであるという役割を得た
ラピュタ』においての主人公は言ってしまえば、
二人のラピュタだったのだ。


コナンが割って入ったことで文字通り崩れてしまった
二つの可能性という構造が、
天空の城ラピュタ』ではしっかり機能している。


●無意識の枷
それまでのアニメ視聴のキャリアやその中での感動などは、
過去の作品を遡ってみていく時に思わぬ枷となることもある。


コナンを見る時にラピュタを意識したことはほとんどなかったが、
今回、そこが無意識の枷になっていることに気が付いた。


バンダイチャンネル見放題やdアニメストアで手軽に過去の作品に触れるようになった今、
この無意識の枷をどの対処していくか、
ということを考えねばならないのかもしれない。

REDGARDENノット!〜ソウルイーターノット10話


ソウルイーターノットのコンテにまさかの松尾衡さん!
サンライズ作品では時々各話コンテでお見かけしますが、
まさかノットにくるとは!
ボンズ作品はゴシック以来かな?


そして、
松尾衡、百合、アメリカ、死、歌とくれば、
連想されるのは、やはり
RED GARDEN



思い返してみれば、松尾さんとソウルイーターノット
ひいては橋本昌和監督は方向性が一致している。


というわけで、故・今敏監督とのRED GARDENについての対談を振り返ってみる。


今 敏監督× 松尾 衡監督 対談 その6
「『RED GARDEN』の演出に見る、演出家・松尾 衡らしさ」
http://web.archive.org/web/20071114075753/http://clappa.jp/Special/79/6/

――『RED GARDEN』で松尾 衡監督らしい演出というと、どういうところになるのでしょうか?

今 敏(以下、今) それはね、もっと女の子が好きな監督が演出すると萌えにいきかねないんです。でも、松尾さんの場合、萌えはないなって(笑)。

私と共通する部分なんだけど、女の子を可愛く描こうとすることと、可愛い女の子に感情移入していくことは同じなんだけど、可愛い女の子を観察することは違うんです。
松尾さんの場合、演出が女の子との間に一枚フィルターを置いて、距離感を最初から最後まで保っているんですよ。


今敏が松尾演出の特徴としている
この「演出が女の子との間に一枚フィルターを置いて、距離感を最初から最後まで保っている」
というのはノット10話でも全編通してあった感覚。


特にそれが顕著だったのが


この食卓のシーン。
カメラがツグミに寄って、感情移入させるのか思いきや、
突き放すような「おいしいです」の暗い棒読み。
続くアーニャのカットも

カット尻でアーニャが「カメラの方向を向く」事で、
視聴者に「第三者」の感覚を与えて感情移入を拒否する。
松尾演出の距離感が如実に現れている。


○女の子同士のベタベタ

松尾 衡
たとえばケイトとポーラのように女の子同士がベタベタしているのって、単に「女の子同士って普段ベタベタしているよね」って思うからなんです。自分としては、あれが気持ち悪いなと思っている。でも、女の子同士は気付いていないから、「あの二人はレズなんですか?」と質問されたら、「だって、君らいつもベタベタしているでしょ」と答える。それだけのことなんですけどね。


百合的な表現に意外なこだわりを見せる松尾監督。
女の子同士のベタベタを「気持ち悪い」と思いながらも
現実に女の子はベタベタしているから、そういう表現をする。


ノット10話でもその「気持ち悪いと思いながら表現するベタベタ」が見られる。
例えば序盤の


こういった描写。
百合ヲタ的には
「せっかく百合百合してるのに、なんでカメラを寄せないの;;;;」
みたいな感じだけど、
松尾さんは断じてクール。



○マイナス1のカット割
http://web.archive.org/web/20071114190355/http://clappa.jp/Special/79/5/

今 カット割は、基本的にマイナス1にしておけば、次が見たくなるように続いていくんですよ。わざと、カットのなかで起承転結をつけないで、起承転で切るとか。もしくは、承転しか描かない。
そういうマイナスを作っておけば、次が気になるから、自然と引っ張られるんです。でも、大抵の人は「はい、このカット終わり」みたいに、カットで完結させてしまう。

マイナス1のカット割もノット10話の多くカットに言えるが、
わかりやすいのは例えばこれ

煙が凄くいい仕事をしていて、
コレが誰なのか、そしてどうなっているかが、
煙が邪魔してひと目では分からないようになっている。
つまり、このカットでは煙が「マイナス1」の役割を担っているわけだ。
(ちなみに、ソウルイーター本編のシドの「眉間に自由の女神が刺さり死亡」
という設定を表現しているカットでもある。)





とこんな感じで、
やっぱり、松尾さんにはまたREDGARDENみたいな作品を作ってほしいなぁ
と思ったのでした。



おまけ
○歌
TARITARI・クレヨンしんちゃんと歌と多用して、
ノットでもやはり歌を出してきた橋本昌和監督。


松尾さんも”歌の人”だった

今敏「実は『RED GARDEN』はオンエアのときに、何回か見ていたんですよ。今回、第1話「さよなら少女たち」から見始めて、ビックリしたのはキャラクターが歌うシーンです。新しいなって思いましたね。一瞬、これは何が始まったんだろうって。


オンエアを見ていたら、DVDのCMで“松尾衡作詞”ってテロップが入っていたんだけど、その意味が、今回第1話から見始めてやっと分かりました。これが元ネタだったんだって(笑)。いやあ、二重に度肝を抜かれました。」


今敏「腰が抜けるぐらい、度肝を抜かれました。あれはビックりする。急に歌いだすんだもの。しかも、同じ歌を違うキャラが、繋げて歌っていくでしょう? 」


あの今敏の度肝を抜いた歌の演出。
そういう意味では、松尾さんが橋本監督の作品に参加するのも必然なのかもしれない。
橋本監督にも、さらなる歌演出で、
あの世の今敏の度肝を抜いてほしい。

『映画けいおん!』を二倍速で見て楽しんだっていいんだ

先々週、藤津亮太さんのレビュー講座に行ってきました。
題目は『映画けいおん!


けいおん!』をあまり楽しめなかった俺としては、
かなりの難題。
映画けいおん!』についても、
水池屋さんが「素晴らしい。でも面白いかどうかは別」と言っていたので、
この機会まで見ずに来た。


藤津さんにも「良さがよく分からない作品だった場合にどうしますか?」
と聞きましたが、
何回も見るというのは手でしょうね。10回とか。見れば見ただけの蓄積になる。
との答え。
というわけで、見てみました。
何回も。



そして、確かに得られるものが2つありました。
1つは「ラスト15分は凄く面白かった」ということ。
もう一つは「映画けいおん!』は二倍速で見ると面白い」ということだった。


レビューは1つ目の「ラスト15分」を軸に、書きました。
そして、偶然にもtatsuzawaさんのところの同人誌のテーマが
映画けいおん!」(http://www.hyoron.org/20140321212914)だったので、
レビュー講座で受けた指摘を元に、書き直しをしてtatsuzawaさんに送付。



なので、今回はブログには改稿を載せないが、
代わりにもう一つの発見
映画けいおん!』は二倍速で見ると面白いことについて書いておこうと思う。




○二倍速で見ることは作品に対する冒涜か

友人のこの「二倍速で見ると面白い」という話をした時に出たのが、
それは作品に対する冒涜ではないか?」という事だった。



そう考える人ももちろんいるだろうとは思う。
しかし、いわゆる時間芸術で「速さ」というものは絶対的なものだろうか



それでまず思い浮かんだのが、
グレン・グールドゴールドベルグ変奏曲だ。



細田時をかける少女でも劇中で使われており、
聞き覚えのあるアニメファンも多いはず。


上の動画でも説明されている通り、
それまで「ゆったりとした速度」と「繰り返しの多さ」から
飽きる1時間以上の曲と認識されていたゴールドベルグ変奏曲


それをグレン・グールド2倍近いスピードと繰り返しの省略で半分の30分ほど
弾ききった。
これにより、グレン・グールドはピアニストとしての地位を確立して、
それと同時に、バッハの再評価ともなった。


クラシックですら、こういった速さの変更はあるのだ。


○能のスピードの変化
日本でも似たような事例がある。
それは日本の伝統の能だ
http://www.the-noh.com/jp/trivia/094.html


能は実は室町中期には現在の半分の時間で演じられていた。
それが時代を経るごとに「遅く」なっていったのだ。
グレン・グールドの例とは逆だが、
これも「速度変更」の一例である。


○『映画けいおん!』を二倍速で見るのは文化の習熟への道
こう見てきたように、音楽や演劇の一種である能でも、
速度の変更は行われてきた。
それが文化の習熟の過程とも言ってもいい。


映画けいおん!』は二倍速で見てもいい。
それは冒涜ではなく、それで新しい魅力を発見することこそ、文化の習熟なのだ。

境界線上の作品としてのソウルイーターノット


今期はソウルイーターノットを凄く楽しんでみているわけなんですけど、
それはソウルイーターノットが境界線上の物語をやっているから。


それを象徴するのがこれ

ハルバートというツグミの武器形態。


このハルバートの先は、
「槍」と「斧」と「鎌」の3つを兼ね備えている。
これは、ツグミの迷いの象徴だ。



一番わかりやすいのは「鎌」
これはそのまま先輩・マカへの憧れの象徴。
マカは魔女との戦闘要員であるEATクラス。
つぐみは自分は凡人だということをわかりながらも、
EATクラスへの憧れを捨てられないでいる。


メタ的に言えば、彼女は「ソウルイーターノット」の主人公であるにも係わらず、
ソウルイーター」の登場人物たろう、としているわけだ。
彼女は「イーター」と「ノット」の境界にいる。



「槍」はロイヤル槍術の使い手であるアーニャ、
そうであれば「斧」はメメか。


この二人もツグミにとっての境界である。
アーニャを選ぶのか、それともメメを選ぶのか。


しかし、ハルバートという武器がツグミの本質なのであれば、
彼女はすべてを手にするということもあるのかもしれない。


あるいは、彼女は選べないから今は刃のないハルバートの形をしているが、
ひょっとしたら、彼女が選択をした時に、
彼女は「刃のある何か」になるのかもしれない。
鎌になるのか、槍になるのか、斧になるのか、
それともハルバートのままなのか。


その決着を楽しみにしている。