鈍感というか眼中にないんじゃないか?

strさんの
http://d.hatena.ne.jp/str017/20091210
の鈍感主人公についてなんだけど、
別ににゃんこいの主人公って鈍感ではないと思うんだ。


にゃんこいの主人公にはもうはっきりとした「本命」がいて、
その本命しか見えてないというだけで、
幼馴染に対して鈍感というよりも、
眼中にないって感じだと思う。


これは同じハーレムアニメのけんぷファーにも言えること。
あれも「本命」がいるために他が見えてない。


ではなんで彼らを鈍感と感じるかというと
それは、視聴者は主人公に感情移入するにも関わらず、
視聴者と主人公には情報の格差があるからだ。


例えば「にゃんこい」で言えば、
視聴者は幼馴染の心情をモノローグという形で聞いている。
幼馴染がどれくらい主人公が好きかを知っている。
でも主人公にはその情報はない。
あくまで、主人公から見た情報しか主人公は持ってない。
そのギャップは常に意識しないといけないで、
そんなことを考えながら見ている人はほとんどいないだろう。


また、「本命」に対する主人公の気持ちに感情移入出来るかは、
視聴者の好みによる。


時々「なんで主人公はこんなヒロインを好きなのか分からない」
という様な感想を聞くが、
異性の好みなんて人それぞれなんだから、
それをとやかく言ってもしょうがない。


これを演出する側から逆に見るとこうなる。


・主人公の持っている情報を視聴者に伝えて、情報のギャップを緩和する必要がある。(客観的アプローチ)

・主人公の「本命」への思いに説得力を持たせるために、視聴者が納得するだけのヒロインを魅力を表現する。(主観的アプローチ)



この両輪が巧くいっていると、主人公に対してスムーズに感情移入できる。


これに対して、感情移入を否定する演出ならば、
そもそも主人公の本心を見せない手法をとるだろう。
いわゆる群像劇だ。


わかりやすいところで言うと「ハチミツとクローバー」の笠井監督なんかは
この系統。
前回紹介した五十嵐卓哉DTB岡村天斎なんかもそうですね。


時間ないからこんなところで